let fry red
















夕立が降り出した。辺り一面に瞬時に薫る石の焼けた匂い。
香ばしさにも似たその匂いを、母親に命じられて窓を閉めに来たリョーマの鼻孔を擽った。

この匂いは結構好きだな、と思う。

夏に限り、漂う薫り。
すっかりと窓辺に来た当初の目的など忘れて、窓辺に上機嫌に座り込んだ。
窓の桟を降り注ぐ夕立がひたひたと濡れさせていく。窓のすぐ傍に居るリョーマにも微かな程、飛沫がつくけれど、本人に気にした様子はなかった。
室内が雨で濡れないように、と息子を遣わしたというのに、全くの逆効果がもたらされていた。この時ばかりは母親の人選が宜しくなかったのだろう。


ざあざあと止むことを忘れた様に降り続ける夕立のその様をぼんやりと眺めているうちに、不意にリョーマは眠気に襲われた。
昼少しすぎまで部活に打ち込んでいた疲れのせいかもしれない。




一際、夕立の勢いが増したのと頃合いを同じくして、すぅ、とリョーマの口から寝息が漏れた。













「リョーマ!」

それから精々30分ほどして、母親の怒声でリョーマは目を覚ました。
持たれ掛かった窓辺の外が静かで、ああ夕立は止んでしまったのだと気付いた。

「もう、窓を閉めて頂戴って言ったのに、どうして開きっぱなしなの?すっかり部屋が濡れてるじゃないの」

足下を指さして母親が怒る。
その指の先をリョーマも視線で辿れば、そこは入り込んだ雨水のせいで艶々と光る床があった。
そこで漸く、リョーマは母親からの頼まれ事、つまりは当初の目的を思い出した。ものすごく今更だった。

「ごめん、母さん」
「ごめんじゃないわ」

はあ、と困り果てた様に母親は溜息。

「ここ、拭いておいて頂戴ね」
「…わかったよ」

まあ、自分のせいなのは火を見るよりも明らかなのだし、断る謂われは無い。

リョーマに次の指令を伝えて、母親はその場を去った。
先程の石の焼ける匂いの代わりに香しい夕餉の香りが仄かにするから、きっと料理の途中だったのだろう。


窓辺から、リョーマは立ち上がった。今度こそ、母親からの指令を遂行する為だ。

「あれ?」

けれど、立ち上がったその足は真っ直ぐに雑巾を取りに向かわず、その場で留まった。
リョーマの視線は窓の外へと。


空が赤い。
それだけでなく。空気や風景すらも赤かった。

それがつい先刻の夕立のせいだとはリョーマは気づけない。そういった気象の知識も無かったし、それ以上に只管に赤いだけの外の世界に視線を奪われていた。

「………」

少年の足は駆けだした。
母の言いつけを完遂する為、ではなく、その足は一直線に外の世界へと。

「リョーマ!?」

玄関の扉を閉めることすらせずに外へと駆けだしていった息子へ母親から驚嘆の声が投げられた。
それすらも、もう背中に受けて、リョーマは一目散に走った。
衝動的だった。













「すいません、手塚と申しますが越前は居ますか?」
「この家のもんは全員越前だぜ?手塚クンよぉ」

リョーマが家を飛び出してから暫くして、越前家には来訪者がいた。
何故だか肩で息をして、額にうっすらと汗すらかいて、手塚は越前家の門扉の前に居た。
彼と遭遇したのは家長である南次郎だった。ぱっと見、実の息子と年が近い様な少年には到底見えないが、決して大人にも見えない。これはきっとリョーマの客だな、と勘付きながらも敢えて南次郎は手塚を揶った。

そんな南次郎に、戸惑った様な顔を手塚はした。
頭が軽い混乱に陥っていたせいで、思考が及び足りていなかったことを自ら恥じる。

「…すいません、テニス部の部長の手塚と申し……」
「ああ、わかってるよ。リョーマの客だろ?」

改めて、リョーマを訪れた、という事象を言い募ろうとした手塚の言葉を南次郎がけたけたと笑いながら遮る。
自分の息子が『友達』に選ぶには珍しいタイプな気がした。
いや、でもなかなかに揶い甲斐がある辺りは、傲岸不遜なあの王子様の好みとぴったり一致するかもしれない。多少サディスティックな部分があの猫にはあるのだし。

「リョーマならちょっと前に出ていったところだぜ」
「え、あ…そう、ですか…」
「どこ行ったのかは知らねえがな。随分慌てた様子だったが」

そうですか、とまた手塚は返す。どこか意気消沈した様子で。





夕立が終わった後の空があまりが赤くて、街すらも赤くて、急にリョーマに知らせたくなって、ここまで駆けてきてしまったと言うのに。







「なんだ?残念そうな顔だな。うちの息子に何か急用か?」
「いえ…そういうわけではないのですが…」

否、急用であったのだけれど。
珍しく手塚は語尾を濁らせた。

そんな折、越前家の中から電話が鳴る。

「お、ちょっとすまん」

手塚にそう言い置いて、南次郎は室内へと入っていった。


リョーマが不在ならば、いつまでもここに立っていても仕方ないか、と南次郎の背を見送りながら手塚はふと思った。
あの父親と別段話し込むような話題も用事も無いことだし。
帰ろう、と手塚が身を翻しかけた時、

「おおい、手塚君とやら、電話だぜ」

行きと同じく、ばたばたと玄関までの廊下を駆けて南次郎が戻ってきた。手には電話の子機。
一瞬、その言葉の意味が理解できなくて、ハタと手塚は振り返しかけていた足を戻した。

他人の家に居てどうしてこの家の人間でいない自分へと呼び出しがかかるのか。意味が本当にわからなかった。

困惑すら覚える手塚を気にかけた様子もなく、ポン、と南次郎から手塚へと受話器が渡される。
手塚は受話口を耳に宛った。

『もしもし、部長?』
「越前?」

電話から聞こえてきたのは、紛うことなく、越前リョーマの声。

「お前、今どこに居るんだ?」
『部長こそ、どこ行ってんの?オレ、折角来たのに』

来た…?
一体どこへだろうか、と不審がる手塚の耳に、リョーマの声で『部長の家』と聞かされる。
何がどうなっているのか、手塚の頭ではまだ理解が及ばなかった。

「俺も、今お前のところに居るところなんだが…」

ぽつりと辿々しくそう漏らすと、向こうで驚きの声があがった。そして何故、と理由を問われる。
手塚だとて、リョーマが自分の家に突如として現れた事を問い質したいというのに。

「空気が赤くて…」
『え!?』

言葉の途中でそう遮られて、一瞬、聞こえなくて聞き返しているのだろうかと手塚は思った。
けれど、そうではなかった事はリョーマの次の句で判然とした。

『部長も!?』
「も、ってことは、まさか、お前…−−」

まさか、こんな偶然があるだろうかと思わず手塚は目を見張った。

赤い赤い空。そして空気と町並み。
すべてが赤に染め上げられた自然の産物であるこの赤い世界を教えたくて、

「だから、お前は俺の家にいるのか…?」
『うん、そう!なんだ、部長も同じ事思ってたんだ。じゃ、そこでちょっと待ってて』

今すぐ行くから、と言って手塚の答えも待たずに電話が切られた。
ツーツーと空しく機械音を鳴らす子機だけが手塚の手に残った。

「あいつ、なんだって?」

背後から不意に声が掛かって、くるりと振り返れば煙をくゆらせる南次郎と目があった。
手塚は南次郎へと電話を返した。










赤い世界が少しずつ藍へと変わり始めた時刻の事だった。
















let fry red
赤を飛んでご覧。
今日、夕立が降った後、お外が全面真っ赤だったのでモエが来たです…。
手塚はちゃんと越前ちに行ってきます、と言ってから家を出たので越前さんは手塚がどこに居るのか判ったという裏話デスヨ
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