スリープシープな僕の恋人
人が疲労や失した体力を回復する術は、睡眠。
どんなに疲弊疲労した身体も、一晩睡眠を取れば、自然と回復する。
そして、ぐっすりと安眠を摂った手塚の身体は覚醒した。
今更言及するまでもないだろうが、手塚は背が高い。そして身が細い。
それは、手塚とリョーマが出会ってから間もなく十年が経とうとする今現在でもそれ程変わってはいなくて、未だに手塚はすらりとした痩躯だった。
細いけれど背は高い。
意外とその背格好は厄介なもので、覚醒を身体が始めても自然と頭まで血が回る時間というものが割合掛かる。
世に言う低血圧、という症状。
特に、ここ数年、リョーマとひとつ屋根の下で暮らし出してからは相手につられてなのか、目覚める時間が遅くなった。逆にリョーマも手塚に感染はしている様で、本人曰く随分と起床の時間は早くなった、らしい。
まだ寝室全体が薄暗い最中に瞼をゆるりと開け、そのまま天井を見詰めてぼんやりと過ごす。
隣でもぞもぞと動く気配。無意識に身体が体温を求めてそちらへと寝返りを打ち、腕を伸ばしてすっぽりと抱き込んだ。
腕の中のふわふわとした髪に顔を思わず埋めれば、一際大きく相手はもぞりと身体を動かして手塚の死角でぱっちりと目を覚ます。
「…アンタ、また人にくっついて寝てたの?」
「…ん」
「寝る前に暑いからあんまりくっつくなって言ったの誰だったっけね?」
「ん…」
生返事ばかりを返してくる恋人の腕を何とか外して、リョーマは広いベッドに身を起こした。
ベッドの真向かいの壁に掲げられた時計はまだ早朝の時刻。
生憎とそんな早い時刻でも一端に大人になったリョーマのタイムスケジュール通りの時間だ。今日は外出の予定で詰まっている。
そんな中、腕の中の温度が逃げたことを頭ではわかっているのか、解かれた手塚の腕がまた蠢いてベッドを下りるべく起こしたリョーマの腰に巻き付いた。
「ちょっと。オレ支度しないといけないんだけど」
「…んー」
ちっとも肯定になっていない返事。
目は薄くとは謂えど開いているというのに、起床と云うにはこの人には未だ早いらしい。
チクタクと進む秒針を見遣りつつ、リョーマは自分の腰に巻き付いた腕に手を掛ける。
「ほら、離して」
「ん」
「ん、じゃなくてさ。離してって言ってるんだけど。聞いてる?」
「…んぅ」
解っていない。
「いつまでも寝惚けてないで起きて。ほら」
「んー…」
離れるどころか、寧ろ顔を脇腹の辺りに摺り寄せてきて更にしがみつかれる。
その間も、刻々と時間は過ぎる。
諦めにも似た思いで、リョーマは肩を竦ませ、力任せに手塚の腕を解いてベッドを下りた。
無理矢理退かされた事に機嫌を損ねているのか、手塚の眉間には細く皺が寄る。
そのままぺたぺたと部屋を出て行くリョーマを、一度じろりと拗ねた様に睨んでから不貞腐れた様に手塚は枕を抱えて壁際を向いて、もう一度夢の中に落ちた。
聴覚だけがぽっかりと起きた。
視界は一面濃い濃い灰色。
「時間だからオレもう行くよ?」
声のした方向にぐるりと身体を反転させる。睫の影の向こうに見慣れたシルエットだけがぼんやりと浮かんでいた。
次第にその影は近付いてきて、額に小さく唇を落とされた。
触れられた額への温度に妙に安堵を覚え、その温もりを追う様にまた無意識で腕を伸ばす。
そうすれば、伸ばした腕は指を絡め合うようにして握られて、少しばかり擡げていた顔に幾つもキスの雨が降って来る。
それを矢鱈幸福そうな顔をして手塚は余す事無く受け入れて、絡めとられていないもう一方の腕も上へと伸ばした。それも矢張り相手のもう一方の手で受け止められて、両手は下降してシーツに縫い留められた。
ギ、とベッドのスプリングを鳴らして覆い被さられて、口腔を貪られたのを最後に、キスも、絡ませていた指も離れて行った。
「行ってきまーす」
パタン、と少し離れたところでドアが閉まる音。
それをどこか遠くで手塚は聞いていた。
幸せな現実の続きを夢で見ようとするかの様に、三たびとして手塚は眠りへと入っていった。
カチリ。
秒を知らせる針の音がその1秒に限って厭に大きく響いて、手塚は今度こそぱっちりと開眼した。
視線を動かして時計を見れば、本来起きようと決めた時刻――リョーマが起床する時間――から数時間経っているらしいことが視力の低い朧げな視界でも見留められた。室内は既に随分と明るい。
そのまま、視線をふわふわと動かして、隣を見遣る。
隣で寝ていた筈の恋人の姿はが無い事に勿論に気付いて、ガバリと慌ただし気に身を起こしてベッドから脱け出た。
この時、手塚の脳裏には浅はかな早朝の光景がほんの少し前の出来事としてリフレインされていた。
つまり、たった今、リョーマが部屋を出て行ったと記憶は勘違いしていた。
「越前…――!」
バン、とけたたましく寝室の扉を開く。
そこには手塚の間違った記憶のままなら、今し方部屋を出て行ったリョーマのまだ幾許か小さい背中がある筈だったが――
現実は、
厭と言う程、甘く、
扉の少し先の壁に背を預ける格好でリョーマが座っていた。
そのリアルの横顔に、突如として誤っていた手塚の記憶は矯正された。明るい午前の光を漸く網膜が捉えきったせいかもしれない。
自分がこれまで2度起きたこと。
頭に血が足りていない状態とは言え、リョーマを離そうとしなかった事。
そして、噎せるようなキスの雨霰を浴びせて彼が部屋を出て行ってから、今は数時間経っている事。
全ての現実を目の当たりにさせられ、手塚が言葉を無くしている間に、腰を下ろしていたリョーマの目が開いた。
纏わりつく眠気を払うかの様に、何度か瞬いて、手塚へとその視線の矛先は向かった。
質の悪い笑みがその口元を彩る。
「やっと起きた?」
「お、お前、なんで、今、この時間に、ここに…居るんだ」
粛正された記憶が真実だという自信はある。なのに、誤りの記憶のまま、リョーマは扉の向こうに居た。
俄には信じ難い現実を前に、手塚が言葉を明瞭に話せないでいれば、座ったままでリョーマは頬杖を突いた。
「今日のスケジュールは全部キャンセル」
「…は?」
「だって、全身で行かないで、って言ってるアンタ放ってオレが今日一日無事でいられると思ってるの?」
ニッ、と吊上げられた口元。
その口は次にはやっと、おはようと告げた。
スリープシープな僕の恋人
寝惚けの天然3割増しな手塚。もっとさくっと起きる人だとは思ってますけど。
越前と言う名の安眠枕。わーたーしーもーほーしーいー
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