半獣主義
「あぁ…、すげぇ効いた………」
いつ眠ったのか記憶がもうない。けれどベッドの右端で目覚めた己の手が何やらベタついていたので背中にブランケットを被せたまま――これも自ら掛けた記憶が無い――一番に手をティッシュでごしごしと擦り続けていた。
アライグマの如くそうやって手を擦り合わせたままぼうっとしていれば、不意に忘却されていた昨夜の記憶が過って、手塚は意識の箍も通さずに言葉を漏らした。
日常生活の中でも、一人の時だろうと使わない口調。
翻せばそれ程、手塚は限りなく放心に近い状態にあったというわけで。
己の言葉を己の耳で聞いて、擦り合わせていた手の動きがぴたりと止まる。
効いた…?
そしてふと自分の周囲、及び自身の状態に視線を配って、手塚は頭を両手で抱え込んだ。
手の中にあった用済みの塵紙は床にひらりと落ちた。
「効き過ぎだ、あの馬鹿…ッ」
拭ったばかりの手以外にも、体の至るところが汚れている。汚れていると云えども、炭や泥の様な目立った汚れがあるわけではなく、乾ききった白っぽい何かが其所此所に付着している。それは髪から顔、肩に胸に腹に手足。
汚れていない部分も勿論あるけれど、それを探す方が困難そうな案配であった。
そして、体がそんな状況であると同時に、手塚が乗っているベッドの上もそこら中が汚れていて。体と同様の列挙方法を用いるとすれば、シーツからその下のマットレス、手塚が羽織っているブランケットに枕。床にも何粒か飛沫した跡が見られた。
この部屋にいるのは手塚一人。
けれど昨夜、この部屋にいたのは手塚の外にもう一人。言うまでも無く、想像に容易き事乍ら、それはリョーマと名の付く2つ下の後輩。
その後輩の下で脚を開いたり上に乗ったりシーツに俯せてみたり。頭を抱え込む手塚の脳裏に次々と過るのはそんな昨夜の自分。
ありとあらゆる痴態を尽くして夜を過ごしたことは、今、この場で手塚が記憶から追いやってみたところで状況証拠兼物的証拠が部屋中に残っているのだから事実は捻じ曲がらない。
その事実が形成されたのにはちょっとした理由があって。
発端は、越前リョーマによる「もっと大胆さが欲しい」という一言から始まった。
そんなものを直情的に求められても応えかねるという旨の返事を手塚が大層顔を顰め乍らすれば、リョーマは向き合ったベッドの上でにやりと笑ってみせて、ズボンのポケットに手を突っ込んでは何かを握り込んでいるらしい拳を手塚へと差し出した。
不審感だけを纏って構える手塚を「まあまあ」と簡単に宥め、リョーマは手を開いた。
開かれた掌上には、
ビー玉程度の大きさをもった黄色く半透明な球体。
見知らぬ球体の登場に、手塚を覆う不審感はますます肥大するが、それと比例してリョーマの笑みは濃くなった。
手の平にある丸いものを手塚の鼻先へずいずいと突き出して、リョーマは朗らかに言う。「飲んで」と。
これは何かと手塚が尋ねても「いいからいいから」そう言ってリョーマは口を割らない。
飲み込んでも害は無いのかと、そこのところだけは大丈夫だとリョーマは返事を寄越した。
リョーマの掌上にある物体を暫く眺め、意を決して手塚はそれを摘み、口に放り込んで一息に飲み込む。
話の流れとして、それが何物なのか、ということくらい勘付いても良さそうなものだけれど、ついさっきまでしていた会話を瞬時に忘れた訳でも無い手塚は一切として正体に気付かなかった。
リョーマが、「催淫剤」と嚥下が過ぎてから答えを明らかにするまで。
吐き出そうとしてももう遅い。
吐き出そうと手塚が思うより先にリョーマの手が伸びて手塚はシーツのドレープに沈められていたものだから。
”そう”して、”こう”して、迎えた朝、という訳である。
唇も腫れっぽい気がするし、腰も痛む。腿の内側もやたらと疼く。全身の倦怠感もあるし、何より体中から漂う香りや膚に纏わりつく妙な汚れが気持ち悪い。これが自分とその恋人の吐き出したものだと考え方を変えてみても矢張り気持ちの良いものでは無い。愛しさを覚えるには少々、限度を越えている。
効き過ぎた。
効き過ぎて、日頃の自分ではしないような体勢も取ったし己のものとは信じ難い声も出した。まるで別人の様な思考回路でリョーマの望むまま、従ったし動いた。
ベッドの上で手塚が懊悩しているその背後では日が次第に高く上りだし、じわじわと手塚の時間を奪っていった。
これから部屋の始末をして、身も清めてしまわねばならない。一人で暮らしている身分ならば何ともないことだけれど、手塚はまた親の庇護下にいて、この部屋を一歩出れば家人がいる。
その外界へ、どんな顔をして、どんな格好で行けというのか。
過去の煩悶が過ぎれば現在の苦悶がやってくる。
あれはただのビタミン剤であったと明かされるのは、その日の昼、越前家へと怒鳴り込んで行ってからの事。
半獣主義
ベッタベタなオチでした。いやしかし、だがしかし、ベタ=王道、というわけで後世にもこのオチは受け継がれていくということで。
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