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「部長が浮気?絶対ないよそんなの」
リョーマが桃城相手にそう啖呵を切ったのはつい昨日のこと。
手塚達3年生が部活を引退し、それまで部活で共有していた時間が手塚にとってフリーの時間になろうとも、リョーマは全幅の信頼を彼に確信していた。
それの根拠は、と問えばリョーマは決まって得意顔で「愛だよ、愛」そう答えた。
そんなにも調子づく様が似合い過ぎている後輩だからこそ、少し足下を掬ってみたいと悪戯程度の軽い気持ちで桃城は考え、狡猾と一部に知られる不二に話を持ちかけた。
自分の対リョーマに関してどれほど効力が無いかはほぼ1年の期間に自覚している。それ故に、不二。
桃城の姑息な相談に、「いいよ、暇だから付き合ってあげる」受験生とは思えぬ台詞で以って不二は快諾した。
そして今日。
部活時刻も終わり、桃城はリョーマを連れ出して不二に予め言い渡されていた地点へと向かった。
そこへ向かう間中、悪戯心で胸躍り上機嫌な桃城をリョーマは酷く不審そうな目で見ていた。それでも、帰り道に奢ってやるから、と言われた手前、大人しく桃城の隣を歩く。
冬の帰り道は直ぐに暗くなり、等間隔で立てられた街灯が目立つ。
繁華街からは少し離れ、人通りも疎らなその場所が、不二の示した場所だった。
そこへ辿り着き、数メートル先の街灯下に立つ人間を不二の指令通りに見付けて、桃城は予定通りきちんと立ち止まれば、何も事情は知らない哀れな越前は桃城と同じ様に立ち止まってはより一層不審な顔をして桃城を見上げる。
「桃先輩?」
「ちょ、越前、こっちこっち」
できるだけ焦ったふりをして、つい先ほど自分達が曲がった民家の塀の陰にリョーマを引っ張り込んだ。
力任せに引き摺られて、リョーマは桃城風情ならば射殺し兼ねない鋭さで睨んだ。
けれど、今の桃城は路上で射殺されている状況では無く、
「あれ、手塚先輩じゃねえ?」
塀の陰から顔だけをひょこりと出してはリョーマの袖をぐいぐいと引いた。
それまで桃城の行動に苛立ちを隠そうともしなかったリョーマだったけれど、”手塚”という単語に表情がころりと変わり、塀の陰から覗く桃城のその陰から顔を覗かせる。
そこには、桃城の言った通り手塚が街灯の下に一人で立っており、リョーマ達とはまた別の方向を見詰めていた。横顔の彼が吐く息もリョーマが潜ませる息も白い。
この寒空の下、一人で一体何を?とリョーマが不思議がっていれば、手塚が見詰めていた先から一人の人間が手塚へと走り寄った。
体躯が華奢で長い髪を持ったリョーマの知らない女性は手塚の元へと辿り着くと、有ろう事か勢い良く手塚へと抱きついた。そしてそれを手塚も直ぐに撥ね除けずゆったりと優しく身を離させて垂れ下がった髪を掻き上げてやるものだから、リョーマは我が目を疑った。
「ちょ、まずいとこ見ちゃったかなー、ひょっとして」
頭上で精いっぱいの気不味さを含ませて桃城がそう漏らせば、リョーマは勢い良く桃城を見上げて、そして、渾身の力で拳を振り上げた。
がつん、と言う鈍い音と共に顎へと衝撃を受け、桃城の瞼裏では星が煌めいた。
「…ちゃんと手応えあるし、夢、じゃない、んだ……」
桃城を殴りつけた己の拳を見詰めてはリョーマは気力の殺がれた声を落とした。
現実かどうか確かめたいのならば、自分の身で試せ、と桃城は強く思うけれど、そこはそれ、急所を強打されたダメージから直ぐに回復できずその場で悶絶しきりだった。
一瞬で意識を手放して倒れ込んでしまわなかっただけ凄いと褒めてほしい。何せ、リョーマは手加減抜きの左拳を突き上げてきたのだから。
物陰でそうやって桃城が必死に意識を繋いでいる間、リョーマはまた一目手塚と見知らぬ女性を見遣り、一度は身を離した二人が再び身を密着させている姿をその目に映り込ませては呆然と立ち尽くした。
「えちぜ……、お、お前なあ、手加減って言葉、知ってるか?」
「知ってますよ」
「知ってんだったらよ、もうちょっと手加減しろってお前」
「すんません。咄嗟だったんで」
「……っとに、よお……」
眩々とする頭を何度か自分で叩いて意識を瞭然とさせ、頭を上げて、桃城はぎょっと目を剥いた。
そこには、今はきはきと受け答えしていたリョーマが顔を項垂れさせて目許を両手で覆い、剰えその指の隙間から涙と思しき雫が滴って、冬の玄いアスファルトへと染みを造っていた。
「おま、お前、何も泣くこと――」
「泣いてない」
泣き濡れている人間とは思えない程、明瞭な声音で。リョーマは確りとそう答えた。
流石にこれは桃城の予想を越えた反応過ぎて、慌てた。宥め賺してみても、指の間から滲み落ちるリョーマの涙は後を絶たなくて。
ささいな悪戯のつもりで仕出かしたことなものだから、泣き面のリョーマを見ても慢心を得られる筈もなく、ただ焦燥の気持ちだけが募った。
しかも、今、ここで自分がタネを明かしたところで、恐ろしい所業に見舞われるのは明白なこと。
ここは自分よりも被害を最小限に押さえられる人間に任せた方が良い。急いで桃城は塀から顔を覗かせて、大きく手を振ることで向こうにいる仕掛け人に急を知らせた。
知らせを受けた人間は大手を振る桃城へと気付き、自分から密着していた手塚を突き放してはぱたぱたと駆け寄ってきた。
甲高く響くヒールの音にやっと事態の収束を向かえられると胸を撫で下ろす桃城の背後で、涙で濡れそぼった掌からリョーマはゆっくりと顔を上げる。耳につくヒールの音。
その音がしてくる方を静かに振り向くリョーマの顔はすっかり表情を失っていた。そのことに、その時至近距離にいた桃城は気付いていなかった。
間近で、ヒールの音がぴたりと止む。
「桃、何も泣かせることないんじゃない?かわいそうだよ」
「お、俺が泣かせたんじゃないッスよ!」
「もー、目が真っ赤じゃない。かわいそうに、えちぜ――」
ガッ、と音は短かった。
けれど、それは恐るべきスピードと桁違いのパワーとで拳が繰り出されたせいで。
そして勿論、拳の主は桃城の背後にいた越前リョーマ。
「女だろうが何だろうが、容赦しないよ」
「え、えちぜ、お、おま…お前なあ…!!」
喧嘩っ早いにしても度が過ぎる。
自分の元へと一瞬のうちに昏倒した華奢な肩を抱き乍ら、桃城は顔面蒼白でリョーマを振り返るがそこにはもう彼の姿は無く、街灯の下でぽつんと一人残された手塚の方へと歩き出していた。
ゆったりと向かっていくリョーマからは、ぼきりばきりと拳を鳴らす音が不穏にも漏れ聞こえていて、桃城は腕の中の人間を路上に捨て置き、大声で悲鳴を上げ乍らリョーマを急いで追った。
「お、お、落ち着け!」
「…ぅっさい」
羽交い締めにしようと腕を回した桃城を後ろ手に掌底で一突きして道に沈め、リョーマは静かに歩みを続ける。
「容赦は、ナシ」
「待て…っ、越前、待てーっ!!」
ずんずんと進んでいくリョーマの足下に必死の思いで縋り付く。
道の先で二人の攻防を何事かと眺める手塚は、まさか自身が危機に瀕しているとは露程も知らない。
手塚は只、不二に呼ばれてやって来て、女装して現れた彼に嘆息を吐いていただけで。べったりと組っ付かれていても、友達なのだから突き放す謂れは無かったと、ただそれだけの無害な被害者でしかなかった。
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ジェンダーフリーを謳うなら、女をぶつ男は最低とか批難するべきじゃないとわたしなんかは思う訳ですが。
浮気は浮気した男も唆した女も同罪だと考える次第です。なので、うちの越前さんもそっちの方向で。
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