停止線知らずのロマンチック
















「ついてる…!」

ばたっ、と咄嗟に後ろ手で閉めた扉に背を預けて、取り敢えず手塚は深呼吸をひとつ。
勢いで閉めた扉の向こうには、西陽が溢れる部室の中でベンチに腰掛けたまま微睡むリョーマの姿が。

扉の閉まる音で塞いだ瞼を一度は起こした彼だったけれど、そこに誰の姿も無いことを虚ろな目で確かめた後、もう一度夢の世界に旅立ち直した。
そう。今、手塚の背に当たるドアの向こうに居るのはリョーマだけ。いつもは通学路が同じ桃城の後部座席を利用して帰る彼だけに、桃城を待っているのやもしれず。
兎にも角にも、1年であるリョーマと部長である手塚が二人っきりにされる様な状況など過去に例は無く、正に千載一遇のチャンス。

扉を潜れば、意中の人と二人きり。しかも相手方は眠っているときたものだ。
一瞬のうちに見えた限りでも、綺麗に伸び揃った睫や弾けんばかりの肌理を持った頬が西陽を蜜の様に取込んでは艶やかに煌めいていた。
支えもなく、前へことりことりと傾いていく様は的確に人の胸を射る。リョーマを知る人間であればその無防備さに余計胸を時めかすことは容易いだろう。
寝息を刻むばかりの薄く開いた唇も、だらりと垂れ下がった腕のしどけなさも、蠱惑的の一途に尽きた。

そんな光景を目撃して手塚の胸が早らなければ、思春期の少年と呼んではいけない。ばくばくと早鐘の様に波打つ鼓動を落ち着け様と、その場で手塚は何度も呼吸を繰り返した。

吸っては吐き、吐いては吸って。
その間もか細い寝息が扉の向こうから聞こえてくるものだから、いつ迄経っても手塚の心音は鳴り止まない。
リョーマがまだ本当に眠っているのかと扉を薄く開けて中を覗き見れば、それは輪をかけて。

「落ち着け、落ち着け俺…」

すうすう、はあはあ、と冷静を取り戻す為の呼吸は先程から何度も続けている。なのに、まるでそれが収まらないものだから、段々と手塚は焦れてくる。
意識すれば意識する程、ただ呼吸は乱れるばかりで。

早く中へ踏み込まねば、誰かが来て二人きり、という夢の様な空間は一瞬にして瓦解してしまう。今は不在の桃城が来てしまえば、このビッグチャンスを逃すばかりかそのままリョーマを家路に連れ攫われてしまうこと請け合いだろう。
そもそも、もういい加減、リョーマだって通学路を覚えただろうし、一緒に帰らなくてもいいのではないだろうか。お節介も度が過ぎると迷惑に違いない。
第一、人望を集める桃城がリョーマとばかり帰っていて、他の奴らに不満は溜まらないのだろうか。
どうにもこうにも、桃城には魂胆がある様にしか思えない手塚であった。――今、この機会に浮き足立つ自分の様に。

ぐるぐると思考は巡る。ばくばくと心音は余計早まる。
もし、この場に通りすがる者がいれば、不審に思うこと間違いなしの有り様もそのままに、手塚は漸くくるりと扉へ向き直りノブを掴んだ。
しつこいくらいに、もう一度息を吸い込む。緊張からすっかり汗ばんだ自分の匂いがした。
ドアノブを握る掌もしっとりするくらいには湿っている気がする。

ああ、もう、もどかしい…。
す、ともう一方の手で左胸を押さえれば、準備はまだ!と叫ばんばかりの心臓が皮膚越しに伝わってくる。
そう諌められても、どうやったって治まりそうに無いし、無為に過ごす様な余裕はきっと無いだろう。そもそも、桃城が何用でリョーマを待たせているのか手塚は知らない。
教室までちょっとした忘れ物を取りに行っているとすれば、帰ってくるのはもう僅かのことだろうし、トイレに行っているとなればもうそろそろ足音ぐらい聞こえてきてもいいだろう。

このまま、ドア向こうから聞こえるリョーマの寝息に胸を弾ませて佇んでいる訳にはいかない。
――いかないのだけれど、左手はノブを掴んだきりで。足は棒になった様に立ち竦むばかりで。
進んでしまえ、と囃す頭の片隅とは裏腹に、手塚は扉を開けずにいた。

なんて愚かな。
囃し立てる次にはそう頭の中にいる誰かは詰り始め、少なからず手塚はそれに同調する部分を覚え出す。
恋に臆病になるのは、生涯初の恋なのだから仕方が無いと言えば仕方が無い。未踏の地へ踏み込むのは誰だって勇気の要ること。けれどそこで進まねば得られぬものが確実にある。
仮令、中に踏み入ったところで何をするかなど思い付いてはいなくとも。

以前、偶々見かけたテレビで厳つい男は言っていた。
『この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となる。迷わず行けよ。行けばわかるさ』
一休宗純の言葉だったかな、とその時は何気無しに聞き流した言葉だけれど、こんな場面で脳裏を過るとは。

そもそも、チャンスなど必要の無い人間にはそうそう巡ってくるものでは無い、筈。
必要とするものだからこそ、チャンスは訪れる訳で。尚且つ、チャンスだと受け止められる。…のだと思う。
折角の幸運を駄目にして、次の道があるものか。

ぐ、と籠った力もそのままに、手塚はドアノブを回す。この時、反射的にとは言え、目を瞑ってしまっている辺りは何とも情けない。加えて言うのならば、耳まで紅潮してしまっているのは如何に処置を施してやれば良いことか。

何はともあれ、キ、と小さな音を立ててやっとドアを開いてみれば、

「どきどきしすぎッスよ、部長」

片膝を折り、その上で頬杖を突いたリョーマが浮かべる不敵な笑みにぶち当たったのだった。

















停止線知らずのロマンチック
個人的な乙女手塚はこれぐらいが精いっぱいなんですが、どんなもんでしょうかねー
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