Time stop
















鼻先だけを浴槽に張った湯の外に出し、沈んだ湯の中で、がぼがぼと空気の泡を吐き出した。口から酸素を吐き出す音に依って水面でそれが弾ける音は掻き消されてしまう。水泡が壊れる音なんて、常の状態でさえ、大した音なんてしない。

肺の中に在った空気を全て吐き出してしまって、息苦しくて、リョーマは身を起こす。鼻から吸い込むだけの酸素量では、ちょっと足りない。
起こした上半身が湯を掻き、ざばんと浴室に響いた後、リョーマはまた湯に体を沈めた。今度は、顔面がぽっかりと水面の外に出るようにして。
これで呼吸には困らない。



浴槽の中は、リョーマにとっては至極の世界。
文明の利器である暖房器具達では到底作り得ない独特の温かさと、そして全身を包む心地良さと。一日の終わりに此処へと浸かり込まないと得ることが適わない感覚。
ただ問題があるとすれば、湯は変温動物なものだから、長居はできないこと。

それでも浸かり始めのこの時は、快適以外の何物でもない。
全身の筋肉を弛緩させて、狭い浴槽内にリョーマはただぷかぷかと浮いた。

そしてぼうっと湯気で湿った天井を見上げる。

湯の温度は適温で、室内は時折思い出したように落ちる天井からの水滴が、浴槽の縁に墜落して弾ける音以外は全くの無音で、雑音を嫌うリョーマには快い。
そんな空間に居れば、今にも天井を見上げるその目が閉じてしまいそうで。――――このまま熟睡すれば溺死の可能性もあるから、居眠り程度で済ますつもりではあるけれど。
文句の付けようが無いくらい、頗る程に欣快の至り。

このまま、時が止まってしまえばいいのに、と微睡み始めたリョーマの頭は考え、そのまま次の思考を何も考えない。
室内が無音ならば、その時のリョーマの頭の内も無音だった。

月が満ち欠けする影響を、海原と違って感知することがない単調な水塊の中、それまで朧々と浮かんでいたけれど、不意に先刻と同じ荒々しい水音をさせて身を起こす。
頭の中で二度目の呟きが聞こえたせい。

このまま、時が止まってしまえばいいのに。

そんなこと、とんでもない。
リョーマはどこか慌てた様子で浴槽から脱し、そしてそのまま浴室を飛び出て濡れた体を大して良く拭きもせぬまま衣服を身に付けて、脱衣所の扉、廊下を走り抜けて家の玄関戸を出た。
リビングに居た母が、大粒の雫をまだ髪の先から滴らせつつ廊下を駆け抜けていく行動を叱る声を投げたけれど、そんなことではリョーマのブレーキは踏まれなかった。

夜の漆黒を走り抜けて、リョーマは手塚の家へと向かった。
辿り着けば辿り着いたで、怒られたりするだろうことはリョーマ自身にも予測がついていたけれど。
髪も体も濡れたままだし、第一、他人の家を訪れるには少々時刻が遅い。加えて、事前のアポイントメントも無かったことだし。
手塚の叱責を受ける要素は考えるだけで数限りなく有る。
それでも、リョーマはただ手塚邸目掛けて全力疾走を続けた。



間の抜けた神様が、さっきの呟きを真に受け止めて、時を止めるという実力行使に及ばれたら堪ったものではない。
時が止まるその時に、手塚が自分の傍に居ないだなんて考えたくもない。
どうせ時が止められてしまうのならば、手塚の隣がいい。リョーマのアクセルを踏み続けるのは、そんな究極の選り好みのせい。
アクセルが全出力なのは、手塚の元に辿り着く前に時を止められては困るから。





これがアンパイア付きの陸上トラックの上ならば、歴史的な記録が生まれるだろう速度で夜道を駆け抜けたリョーマにはまず、出迎えた手塚彩菜からの大変なお叱りの声が落とされた。そんな濡れた体で、風邪でも引いたらどうするのか、と。
勿論、その後には手塚国光御本人からも、雷は落とされた。

対面での正座を強要され、且つ、がみがみと叱る声を頭の上から受けつつ、こんな不毛な説教を強制終了する為にも、颯々と時が止まらないかなあと、リョーマは余所事に耽った。
手塚が視界に収められているこの時こそ、時間が止まるに相応しい。


















Time stop
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