ふたりのオコサマ
















リョーマ。
リョーマ。
リョーマさん。


家に居る最も身近な人間達がそう呼ぶのを思い出して、ある日のリョーマはふと首を傾げた。

ひと休み、と占拠したベンチから周囲を一度くるりと見渡すと、脱いだばかりだった白キャップを頭に乗せ、ベンチから下りて、見つけた目標に向かって歩を進めた。
からからの砂地にスニーカーの足音がよく響く。

「ねえ」

そう呼びかければ、28センチ上から視線がひょいと降ってくる。
仁王立ちで組んでいた腕が緩まって左右に垂れ、正面を向いていた身体をこちらに向けてくれた。
にっこりとリョーマは朗らかな笑みを浮かべた。

「名前で呼んでいいよ」
「は?」

唐突なリョーマからの申し出に、手塚は眉を顰めた。
それでも、リョーマは笑ませた顔をそのままに、

「名前で呼んでいいから」

そう繰り返した。

「……………」

渋面を思案顔に変えて、手塚は口許に手を当てた。
耐えぬ笑顔のままで、リョーマはその様を見遣る。

「……順を追って話せ」
「そのままだよ。くにみ……」

ばふん、と今度はリョーマの口に手が宛てがわれる。正面の手塚から咄嗟の左手が伸びてきていた。
むぐ、とリョーマは呻いて、押さえつけられているものを剥がそうと、口許を押さえつけられたを両手で掴んだ。

「…その呼び方はやめろ」

どこか目尻の朱い手塚が、窘める険し気な口調でそう言う。リョーマは年相応な大きな目で、そんな手塚を睨みあげた。
精一杯の力で手塚の手を剥がす。

「どうして」
「…いつだってそんな呼び方をしないじゃないか」
「いつかはオレだってアンタのこと、そう呼ぶ日がくるでしょ?」
「……聞き慣れないから、嫌だ」
「アンタだってお母さんとかお父さんからは名前で呼ばれてるでしょ?」
「それは、そうだが…」
「だったら、オレだって呼んでもいいじゃない」

アンタとは近しい仲なんだから。
手塚の指ばかりは細い手を掴んだまま、リョーマは不貞腐れた様子でそう続ける。
視線を左右に一、二度、それから俄に上空を見上げてから、手塚はまた視線を下ろしてきた。その手塚が何か言うよりも早く、リョーマが先に口を開いた。

「だから、オレのことも『リョーマ』って呼んでいいよ、って言ってるの」

嬉しいでしょう?
また笑顔に戻ったリョーマに、手塚は、いや、別に、と言葉通りに興味の無さそうな顔で返した。
人の好意を安易に無下にするつもりらしい。リョーマは顔色を渋らせた。

「どうして、そうつれないこと言うの?」
「つれないも何も…思ったままを言っただけだが…」

ぷう、と膨れたリョーマを、困り果てた様子で手塚は見下ろす。子供はいつだって気分屋でこちらを困惑させる。
どういった態度が正解なのか、疎い手塚にはさっぱり見出せない。
正直な本音のどこが悪いのだろうか。

「いつまでも『越前』とか、味気ない呼び方しないでよ」
「…俺がお前を何と呼ぼうが、俺の勝手なんじゃないのか?」
「呼ばれる側にも選択権があるんじゃないの?アンタだって嫌がったじゃない。くに……」

くにみつって呼んだら。
そう言おうとしたリョーマの口はまた慌てた様子で塞いできた手塚の掌の中に消える。
険々した目で、リョーマはまた手塚を見上げる。

「ほらみろ」

再び、蓋を退けたリョーマがそう言った。
二進も三進もいかないらしい雰囲気に、リョーマに手を取られたまま、手塚は心底困り果てた。

呼び慣れぬその名前を呼ぶのは、剰りに気恥ずかしい。
逆に、家族以外からは呼ばれ慣れぬ自分の名前を呼ばれることも気恥ずかしい。

名前で呼ぶなと言えば、じゃあアンタもオレのこと名字で呼ばないでよ、と打って出て来るに違いないのだ。
屁理屈が得意なのは、まだまだ幼い証。
理路整然と相手を説得できないことも、まだまだ青い証。

「呼んでみてよ」

困り果て過ぎて、表情を無くしてしまっている手塚を、愉悦気味に口端を引き上げてリョーマが見上げる。
本当に、山の天気宛ら、秋の空、女の心の様に、機嫌の移り変わりが激しい。
それはつまり、些細な事でも、彼は楽しく感じられるということでもあるのだけれど。

「…………」

乞われて、明らかに戸惑った風で手塚は視線を下ろしてくる。それをにんまりと満足気な顔でリョーマは見上げ返す。
奇妙なその二人の図を、部活動の合間の手を止めることもなく、周囲の人間はそれとなく気に掛けた。


わいわいと賑わう青少年達の声と、ボールの弾む音、ラケットが風を凪ぐ音。ぱきんと際立ったスマッシュ音。

それらを聞き乍ら、手塚の口は開く気配を見せなかった。
葛藤の嵐に苛まれる頭を抱えたまま。
――呼んでみたいような気も、しなくはない。けれど、それに勝る気恥ずかしさがある。
呼んでしまう事で、何か見えない一線を越えてしまいそうな。

それでも、そのボーダーラインに怯える手塚とは裏腹に、眼下からは期待に満ちた目で、リョーマが見上げてきている。
さてどうしたものかと、手塚はその顔を見下ろし乍ら思案した。

たかが名前、と一笑に伏せる程、この時の手塚は大人にはなりきれていなかった。所詮は数え年で15のほんの子供。

子供は、子供らしい逃げ道を。

「…………――っ」

くしゃり、と手塚は顔を歪めた。俯いてみせる演出付きで。
それから、リョーマに捕らえられたままではない手で、目許を拭ってみせる。
恰も、めそめそと泣いている風に。涙ぐんでしまったかの様に。肩もすこし、しゃくらせて。

その手塚の様相に、ちらちらとリョーマと手塚の様子を気にしていた周囲がざわりと鳴った。
リョーマすらも、頬をひくりと引き攣らせた。

「な、何も泣くことないじゃん…!」
「あー、越前が手塚泣かせてルー」
「いっけないんだー、おちびってバー」
「いじめはいけねえなぁ、いけねぇよ、越前」
「…お前、手塚部長を泣かせるとは、いい度胸してるじゃねえか………」
「越前、手塚に酷い事言っちゃだめだよ?」
「あの手塚が泣くなんて………一体、何が…」
「…うそ泣きの確率は75%」
「もう………………」

未だ握ったままだった手塚の手を離し、代わりに両手で手塚の頬を包んで、リョーマは、はぁ、と溜息を落とした。足の裏の筋が切れそうなくらいに精いっぱいの背伸びをし乍ら。
目の前では、手塚が手の甲でぐいぐいと目許を拭い続けている。

「ずるいよ、アンタ。泣き落しなんてさ…」

精一杯の背伸びで届く手塚の目尻にリョーマはそう零しつつ、キスをひとつ。逆側の、必死に拭っていた方の目尻にも、手を退けてキスをもうひとつ。
泣き止んで、と頼むかのようにキスを合計ふたつ。
すぐ間近で、奮闘して絞り出した涙で濡れた、手塚の目と視線がかち合った。

「そんな真似されたらオレに勝ち目なんて無いじゃない」

計算尽くらしいな、あれで。と乾が遥か後方でぽつりと漏らした。
実に、子供らしい知恵の足らぬ計略。



















ふたりのオコサマ
泣かせたくなる時が稀にある。
基本的に涙知らずな子達だとは思ってるんですが。時には、ね。
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