join the flat of the hand
それはそれは非常に間が悪く。
手塚がこくりとよく冷えた夏の焙じ茶を喉に流し込んだタイミングで。
己の手を頭上に掲げ、リョーマが言った。
「それってマスターベーションみたい」
何の衒いも無く、又、憶測も予断も許さぬ内にリョーマがそう唐突に発言するものだから、本来食道へと流れていくべき澄んだ茶色の液体は誤って気管に詰まり、手塚は声も出せずに咽せてしまった。
隣でコンコンと咳も出来ず、窒息した赤黒い顔で手塚が唐突に――リョーマからすれば、手塚の方こそが唐突な行動だったのだ――咽せ出すものだから、仰いでいた手を戻して手塚の背を慌てた様子で撫でてやった。
視界の一端に、リョーマの目を丸めた顔が覗く。
「大丈夫?」
声音は心配そうだけれど、事の発端はそんな彼なのだから、手塚は涙の浮いた目で吃、と睨み上げた。息の詰まりは随分と和らいでいた。
「何なんだ、薮から棒に」
「え?」
「日も高いうちから、随分と品の悪い単語を言うじゃないか」
直情的な批難では無く、婉曲な皮肉としてリョーマへとぶつけてみても、彼は手塚の言いたいところを理解出来ずにいるらしく、不思議な表情を浮かべてはかたりことりと首を頻りに傾げた。
日本語の意味が解らないだとか、そういう基礎的なことではきっと無くて、彼の曇る表情から察するに、先程の発言には悪気は無かったらしい。
寧ろ、そちらの方がタチが悪いと手塚は思うのだけれど。
度々、自分に対して天然だ鈍感だと冷やかす癖に、彼も然して差が無い気がして仕様がない。
彼を気付かせる為とは云え、あの単語を繰り返すことは手塚には憚られてしまい、口を噤んで彼を睨み上げていれば、漸く彼も気付いたらしく。閃いた、とばかりに表情が明るく変わった。
「ああ、マスターベーション?」
「だからだな…!!」
それを繰り返すなと云うのに。恋人との相互理解にはまだ日が足りていないらしいと手塚は時として尽く々く感じたりする。この理解の齟齬が面白い時もあったりするものだから、完全な一致を目指そうとも思わないけれど。――手塚も、まだまだ難しい年頃であった。
「部長がどうこうっていう話じゃないよ。だからそんなに怒らないで」
ハーレクイン小説の一節に出てきそうな「そんな風に怒ったら、綺麗な顔が台無しだよ」そんな甘ったれた台詞をリョーマは楽しそうに微笑を浮かべつつ言った。そしてハーレクインのヒロイン宜しく、その発言に虚を突かれて――手塚の場合は、その褒め言葉が言われ慣れていないこともあって――思わず瞠目したまま硬直した。
その隙に、リョーマは手塚の額に唇を軽く押し付けた。
そして始まる彼本人に拠る思考披露。
語り出しは、こういうの知ってる? だった。
「手の皺と皺を合わせて幸せーっていうやつ」
「ああ、それなら何かの折にテレビコマーシャルで……」
見た覚えがぼんやりとある。随分と前な出来事である気がするが。
御存知だろうか。小さな女の子が年相応な舌っ足らずの口調で「おててのしわとしわをあわせてしあわせー。なーむー」と合掌し、瞑目する仏壇店のCMを。
リョーマが告げているのはどうやらその古めかしいCMであるらしかった。手塚などは、初めてそれを目にした時、上手い事を言うものだな、と小さな感心を覚えたものだったけれど。
皺合わせ、と幸せ、そして先祖を祀る仏壇が家にあれば家庭安泰、という見事に企業指針の明確さと駄洒落とを掛け合わせた、それなりの出来映え。――勿論、賛否両論あるだろうが、未だにテレビ上で放送されている現状を鑑みる限り、購入層には快い印象なのであろう。
手塚が知っているらしい、と判断するや否や、リョーマはまた両腕を頭上に掲げた。自然と、隣に座る手塚の視線もそちらへと向く。
「自分の手と手を合わせて幸せ、なんてさ、ものすごいエゴじゃない?」
言葉と共に、リョーマはぱちりと両手を合掌してみせ、隣の手塚を振り返った。
「…あれは、ただの駄洒落だろう」
そこまで深く考える内容では無いと思うのだけれど。あのCMもそこまでの主張を振翳す様な素振りでは無いのだし。
けれど、リョーマとしては引っ掛かるものがあるらしく、むず痒そうな、手塚の返答ではしっくりこない様子で片頬を歪めた。
「でも、一人で得られる幸せって凄い限られたものだと思う」
先程までの表情を引っ込め、俄に唇を尖らせる彼の顔色は拗ねるようにも見える。自分の意見が何か間違っているだろうかと、手塚に正誤性を問いたくないけれど問うているような、そんな顔、と言うとやや遠回しな表現だろうか。
けれど、リョーマが浮かべる顔色を伺いつつ、彼の表情とは対称的に内心で手塚は満足そうに口端を擡げた。
自分が施してきた教育――というと大層な物言いに聞こえるけれど。――は誤っておらず、彼は導きの通りにすくすくと育っていることをじんわりと掴み取れた実感が頗る楽しくて。
「では、これならお前には満足な宣伝文句か?」
ひょい、と手塚はリョーマの右手を取り、彼の掌に自分の左掌をひっそりと押し当てて、彼の顔色を再度伺った。
彼は数度、ぱしりと瞼を屡叩かせている。
「隣の人間の手と自分の手を合わせて幸せ」
「Good neighbors to diversity、ってね。いいんじゃない?仏教とキリスト教のコラボみたいで」
リョーマの方は表面上でもにこりと微笑み、それから折角ぴたりと合わさった指を少しずらして、手塚の手を握り込んだ。
まだ、幽かで小さな幸せだけれど、この隣人と出来得る限り長く、できれば果ての無い程の永さで続けていきたい。
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バチ当たりですいませ……。合掌にもGood neighbors to diversity. にもそれぞれ意味があるのにな…。博識な方々からお叱りを受けそうで今からちょっと怖い。けれどネット波には乗せてみたり。
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