idiot universe
















ヒュ、と小さな空を切る音が後方から聞こえたものだから、左足の爪先を軸にリョーマはくるりと振り返る。そこにはもう眼前にまで迫った銀色の包み紙を纏った小さな立方体が飛んできていた。
そのまま軌道に沿い、小気味良い音を立てて額にぶつかられる前にリョーマは素早く左手を振り翳して掌でそれを受けた。掌に当たったパシリという音の後には、地面にそれが墜落するポトリという音。
その音を最後に地面の上で沈黙している銀色の物体を、リョーマは腰を折って拾い上げ、予告も無く放り投げてきた人物を剣呑な目で睨む。向こうからはまるで悪びれた様子も見せず、寧ろ無邪気に笑みを浮かべて菊丸が小走りに駆けてきた。

「オレのカーワイーイ顔にぶつかったらどうするんスか?英二先輩?」
「ごめんごめん。悪気は無かったんだって。おわびに、それあげるから」
「これ何スか?」

親指と人差し指に摘まれている物体を包むアルミ紙の端を逆の手で摘み、中に入っているものから引き剥がしていけば、ねとりと謎に糸を引く。

「ハイチュウ。溶けかけてるけど、まだ食べられるっしょ」

銀紙と中身との間に粘着質な糸が引く様を反射的に嫌悪感丸出しの顰めっ面で見てしまうリョーマとは酷く対照的に、菊丸は楽しそうな声音でそう言った。
その言葉をやや疑う様な視線を菊丸へと向かわせ、暫間の逡巡をした後、先輩の言葉を信じてリョーマは手の中のそれを口へと放り込んだ。やや、舌や口腔の壁に粘つく何かは感じるものの、味はどうやら大丈夫そうだった。

辛うじて食べ物の範疇であったそれを口内で玩び乍ら、リョーマは止めていた足を動かした。リョーマと菊丸が立っているのは、部室までの道。
もう放課後と呼ぶには充分な時間で、少し離れた場所からは早くも部活動を始めた生徒の声でグラウンドは賑わっていた。中には、わざわざ校庭の端に腰を下ろして談笑に耽る帰宅部だろう女生徒の姿もある。

そんなグラウンドの更に端を歩きつつ、頭上から菊丸はリョーマに話題を振った。

「この間の日曜、手塚とデートしてたっしょ?」
「してましたよ。……見てたんスか?」
「見てた、っていうか、見かけた?俺もその時、姉ちゃんとデートしてたから」
「………そういうのってデートって言うんスかね…」
「デートでしょ?俺、姉ちゃん好きだし」
「はあ……。まあ、いいッスけど。それで?」

まだその続きがあるんでしょ?
そう続けつつも、リョーマは前を向いたままざくざくと歩く。菊丸はリョーマを見下ろしながらとんとんと歩いた。

「おちびって左利きでしょ?」
「……なんか、話題がぽんぽん飛びますね」
「そう?俺ん中では筋が通ってんだけど」
「……まあ、いいッス。御存知の通り、一応左利きッスね。右手も使えない訳じゃないですけど」
「器用だよねー」
「世の中は右利きばっかりッスから。右も使えた方が便利なだけッス」
「俺、左手使えないよ?」
「…や、それは右利きだからいいんじゃないスかね?」

右利きの人間が確実に多数派なのだから。
何やら噛み合っていない気がしてならない会話に正直なところ呆れを覚えつつ、リョーマは本筋だった話題の先を促した。
リョーマの手によって話題が逸れていたことに菊丸も気付いた様で。つまりは、それまで気付いていなかったということで。――本当に”つい先程”自らの口で順序立てて喋っていると言っていたくせに。

「そうそう。おちびと手塚のデート。おちびってさ、左利きじゃん?」
「それはさっき聞きましたよ」
「たしかにさっき言ったけど、そういう細かいことは気にすんなって」
「はあ…」
「左利きなのにさあ、どうして右手で手塚の手を握るの?」
「は?」

自らだって、文法が成り立っていない台詞をよく吐く癖に、リョーマには菊丸が言い出した事の意味が瞬時に理解出来なくて、思わず顰めた顔で菊丸を振仰いだ。
見上げられた側の菊丸は聞き分けの無い子供に手を焼く母親みたいにむず痒い顔で、リョーマと同じく顔を顰めた。
彼としては聞き返す必要などない単純明快な質問を投げたつもりだったものだから。

「だーからー。おちびはどうして手塚の手を右手で握ってたの?って聞いてるんだけど」
「ああ、ひょっとして、一番最初に話題にしたオレらのデートの話をしてんスか?」
「当たり前じゃん。最初からその話しかしてないし」

それ以外に何があるの?とこちらは悪くないだろうに唇を尖らせる菊丸を、まあよく見ている人だなあとリョーマは感嘆を覚えつつ、改めてまじまじと見上げた。
見上げた先にあるぱっちりと開いた大きな目は動態視力が良いと聞くけれど。

「どうして右手で握ってたか、って、そりゃ、左手で左手は握れないじゃないスか」
「は?」
「や……あの、『は?』とか聞き返されてもそれ以上答えようが無いんスけど」

それ以下にも以上にも答えようが無い。
困惑の表情を浮かべていれば、感情の起伏が激しい菊丸の顔がみるみるうちに怪訝な顔色へと変わっていく。

「左手で右手握ればいいんじゃないの?」
「それじゃ意味ないじゃないスか」
「意味?意味って?意味わかんない」
「……意味意味うるさいッスよ」
「だって、そうとしか訊けないじゃん」
「でも3回も繰り返しましたよ」
「ほっとけよ」
「ほっときますけど…」
「ほっとくんだ?!」
「ほっときますよ。英二先輩は部長でもないんだし」
「手塚ならほっとかないんだ!?」
「ほっとかないスよ」

ほっとくとあの人、危なっかしいでしょ?

「色んな意味でねー。危なっかしいよねー。デンジャラスビューティーだよね、手塚はね」
「デンジャラスアンドクールビューティーみたいな」
「デンジャラスアンドクールビューティーアンドモンスターみたいな」
「化け物は失礼ッスよ」
「でも、強さはバケモン並じゃん?」
「オレのがバケモンっスよ」
「じゃあ丁度ビューティーアンドビーストでいいじゃん。で?」
「で?って?」
「いやいやいや。越前君、最初の話題を忘れてもらっちゃ困る」
「え?あー……左手云々のとこまで巻き戻りッスか?」
「巻き戻りッスよ」
「………真似しないで下さいよ」
「真似してないデスヨ」
「………どこが」

この人間と居ると矢鱈口数が多い自分がいる事を自覚しつつ、リョーマは演技がかった調子でコホンと咳をしてみせた。
話題は出発点に戻る。

「だから、あの人の左手をオレの左手じゃ握れないでしょ?」
「隣り合って歩く分にはね。繋げないね。左と左じゃ。だからさ、手塚の右手を握ればいいんでないの?」
「てんでお話になりませんな」
「あらやだ、越前君たら上から物を言うような態度」

年も身長も下の癖にね。きひひっ
そう言って白い歯を覗かせて揶い笑いをする菊丸の土手っ腹に一発、拳でも捩じ込んでやろうかと思いつつも、そこは抑えるとして。

「だからですねえ、それじゃ意味が無いでしょ?部長の右手なんて握って何が面白いんスか」
「じゃあなに、左だと面白いの?おちびは」
「面白いッスよ」

だって、と理由付けの前置きを話し始めたところでもう目的地である部室の扉は手を伸ばせばドアノブが握れるくらいの距離にまであった。

「あの人の自由を奪ってるようなもんでしょ」

それってすごく高圧的で隷属的で、少しの間だけ世界が――文字通り――手中に入ったみたいで。

「楽しいですよ」

それを最後にドアノブを回せば、部員達の中から抜きん出る様にして左手使いの手塚が立っていた。


















idiot universe
多分、今まで書いてきたテキストでも繰り返してるんですが、うちの越前は手塚の左手が好物
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