それは些細な冗句のつもりだった。
どうせ、すぐバレるだろうと思ったし、それで少しは叱られるか呆れられるかするだろうと、リョーマの目論見はその程度だった。
けれど、同室に棲まい始めて半年が経とうとしているパートナーの彼は、そんなリョーマの予想を、ひょいと頭ごと飛び越えた実態を見せた。

















Vivian bunny
















越前リョーマが手塚国光に仕掛けた冗談は、黒い耳だった。
垂直にひょこりと長く生えた、ふたつの耳。それの根元がカチューシャの形状になっていて、頭の上に乗せれば、途端に顔の側面に付いているふたつの耳に加えて、頭からもふたつの耳が生えるという、一種のパーティーグッズ。
これはある日に、不二周助から貰ったものだった。
いつもの垰やかな笑みを北叟ませて、「越前、コレ、良かったらいつか手塚に使って?」と手渡された。その時は簡単な包装紙に包まれていたけれど、それを広げて、リョーマもつい、小さく吹き出した。
いいでしょ、コレ。リョーマの反応を見てから、不二もくすくすと肩を弾ませて笑ったものだった。


それを、昨日の晩。偶々、手塚の方が先に眠りに就いた日。リョーマは仕舞っていた引き出しの中からそれを取り出し、こっそりと眠る手塚の頭に被せた。
黒く、長い耳は先端がベッドのヘッドレストに当たって少しばかり折れ曲がっていた他は特に問題は無かった。
寝相の点でも、手塚は起きている時同様、煩く暴れ回る質では無かったから、就寝中に外れることも無かろう、とリョーマもそれから直ぐに眠りに就いた。

そして、お決まりの毎日の如く、リョーマはその翌日、手塚の声に依って起床した。

けたたましい目覚まし時計や携帯のアラーム音ではすんなりと起きた試しは無いけれど、手塚の一声だけではいつもあっさりと目蓋が開き、頭と意識が覚醒する。
手塚は体を揺すってきたりもしない。そんな物理的な力は使わず、ただ、ぐうぐうと眠り続けるリョーマのベッドサイドに立って、

「起きろ」

と、その一言だけ言い置く。それだけでいつも即座に目が覚めるのだから、自分の体は一体どういう造りになっているのだろうかと、毎日、起こされる度にリョーマは小首を傾げる。
その内、彼が近付いてくる足音だけで目が覚める日が来たりするのかもしれない。有り得過ぎて、リョーマは今からそんな時が来る事が少し、怖い。
どれだけ、この人に溺れる人生になれば、この体は気が済むのだろうか。


そうして、今日もあの魔法の呪文で起こされ、俯せて寝ていた体を起こし、手塚を振り返って、リョーマは文字通り、目を点にした。

こちらを見下ろしてきている手塚の頭に、昨夜装着させた長い耳がまだ付いていた。

「…………………」

一瞬、意趣返しなのかと思った。
起きた時に手塚自身も気が付いて、敢えて、それをつけたままにして、こちらの反応を楽しんでいるのかと、リョーマはまずはそう思った。
だから、起床直後に硬直した自分を不可解そうに見下ろしている手塚に向かって、口端を擡げ、「今日はスペシャルに可愛いね」そう揶揄ってみた。

質の悪いリョーマに、15のあの頃から散々、慣らされてすっかり質が悪くなった手塚ならば、直ぐに揶揄し返しただろう。
「季節感の無いサンタが昨日来ていたらしい」とでも何とでも。シニカルな笑みを浮かべつつ。

けれど。

「寝言は、今晩また寝てから言え」

目の前にいる手塚は柳眉を盛大に歪ませて、気味が悪いとでも言わんばかりの顔と声で返してきた。
そして、あっさりと身を翻し、リビングに帰って行く。身の翻し際、手塚の頭上にある黒い耳が反動でゆらりと揺れた。

「……………………」

本気で気付いていない訳では無いだろう。
そう疑いつつも、リョーマも手塚の後を追って、ベッドから這い出た。



リビングでは、立ちこめる朝食の香り。
揃いでの食の好みが幸を齎せて、いつだって二人のダイニングテーブルには和食が並ぶ。鰹や昆布の出汁、醤油や味噌の香り。それらに味を染み込まされた本日の朝食を前に、手塚は先に座って、リョーマが席に着くのを待っている。
先に食事に手を付けるような不粋な真似を、彼はした事が無い。

まだリョーマが手塚の一声で起きる癖がつかずに、昼過ぎまで寝穢くしていた時だって、彼は何度も起こしに来乍ら、作るだけ作った朝食に手をつけなかった。
そうして何度も朝食メニューが昼食メニューに移項した。

カタリと音を鳴らし、椅子を引いてリョーマは腰掛ける。その際の目の遣り場はどうしたって手塚の頭の上へと注がれた。
あの愛玩動物の耳をつけて、美味そうな朝食を前にして、ただこちらの様子を眺めている手塚。頭上のその耳だけが、居間の中で唯一の異物だった。

「い…いただきまス」

本当に本当に、彼は気付いていないのだろうか。
食事前の合掌をしつつ、リョーマは不審だった。怖ず怖ずと漏らされた食事始めの挨拶を、手塚は然程、気に留めた様子も無く、自身も「頂きます」と小さく合掌して箸を取った。

ぴかぴかと光る炊きたてと思しき白米を口に運びつつ、時には揚げの浮かんだ味噌汁を啜りつつ、焼き魚の身を解しつつ、リョーマは不躾な程に手塚にばかり注視した。
そんな視線などはものともせず、手塚はただ黙々といつも通りに朝食を口に運ぶ。食事中は静かに。それはこの家のルールだった。外食や友人を呼んでの会食の時だけは例外。

部屋に入った時は確かにいい香りがしていた筈のその朝食は、碌に味わうことも出来ずに完食の時を迎えた。
無味の原因は、敢えて述べるまでもなく、手塚のせい。箸を動かす度にゆらゆらと揺れる、あの長い耳のせい。

「…ご、ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」

揃って、箸を置けば、手塚が先に席を立ち、机上の皿を颯々と片付けていく。その様を、リョーマは食後の湯飲みを傾けつつ、凝視し続けた。勿論、片付けていく手元では無く、手塚の頭を。

どこの会員制秘密クラブだろうか。
バニーガール……基、バニーボーイ――聞き慣れないが、手塚は男なのだからこう称せざるを得ないだろう――が皿を片付けていくなんて。そしてそれをシンクに運んで洗い出すなんて。

シンクに立つ手塚の後ろ姿を見遣りつつ、リョーマはまだ半信半疑。気付いている方が正論な気がして仕様がない。
けれど、慌てた様子を見せれば、敗北したようで。そしてそれは癪でどうしようもなくて。

既に中身は空になった湯飲みを、尚も口元へと傾け乍ら手塚の観察を続けた。
ざあざあと流れる蛇口からの水音をさせつつ、そのコックを捻る彼には長い耳。

この機に、写真でも撮っておくべきだろうか。
本当に彼が現状に気付いていないのだとすれば、もうこんな機会は巡ってこないだろう。気付いたが最後、怒りで頬を上気させてトラッシュボックスに叩き込みそうな気がする。

リョーマはこっそりとリビングを出ようと席を立つが、その刹那。

「越前」

名前で呼び止められて、思わずびくりと肩が跳ねる。
少しばかり恐い調子なものだから、漸く、気付いたりしたのだろうか。ゆっくりとリョーマは手塚を振り返る。

「な…なに?」

頬が、引き攣り笑っていたかもしれない。
見目にも明かな程、リョーマの様子は不審であっただろうに、手塚はその点を言及することもせず、ただ手を小招いて、動作でリョーマを呼びつけた。怒られでもするのだろうかと、つい怯みがちになる足をゆっくりと進ませて、リョーマは手塚へと辿り着く。

見上げた先の手塚に特記すべき表情が無いのはいつものこと。だけれど、今日のリョーマには険しい顔をしているように見えた。

「袖を捲ってくれ。失念していた」

言われて、視線を手塚の袖元に落とせば、泡に塗れた手の少し上を薄手のシャツの袖があった。
確かに、水仕事の際は袖を捲らなければ、事後に酷い有り様になる。
それを充分、リョーマにも理解できているのだけれど、予想していた叱責の声では無かったものだから、虚を突かれる形になった。
そして、やっとリョーマは自分の考えに、決定打を記した。

この人は、気付いていない、と。
頭上にある異物の存在に、欠片も勘付いてはいないと。

知らず、口角を上げたリョーマへと、両腕を差し出したまま、不思議そうに手塚は小首を傾げる。
ふわん、と揺れる長い耳は、もうその時には彼の可愛らしいさの要因の一つに加わっていた。

「…………こういう状況下で、セックスしてみたいって思うのは男の当然のサガだよね?」
「朝から何を勝手に一人で盛っ―――……!!」

言うが早いか、手塚からの返事など待たずに、リョーマは手塚の身体をシンクの低い縁へと押し付け、強引に口唇を塞いだ。
放ちかけていた手塚の言葉は当然にぷつりと途切れ、続きの言葉はリョーマの口内へと掻き消えた。

抵抗しようにも、掌は皿洗いの途中だったせいで白い泡で塗れていて、そんな手でリョーマの肩を押し遣る事は躊躇われた。これが見も知らぬ別の誰かだったのならば、容赦なく押し返して祖父直伝の柔術のひとつでも食らわせてやるところだけれど。

「…待……っ……えちぜ――――‥ンん…………――」

そんな律儀な彼の優しさなど知らず、リョーマは口唇の稜線を容赦なく割って、薄く開いた彼の歯列を一頻り撫でた。

「精々、悦い声で鳴いてね、バニーちゃん」



















Vivian bunny
ウサギも一応、鳴けるらしいでっせ。キーとかなんかそんなんらしいですが。
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