勝利の栄光を君に
3本の乳白色の瓶が入った、ひたひたに氷水を張られたバケツをベンチ下に発見して、リョーマは思わず汗を拭く手を止めた。
部活の開始の号令がなった時にはこんなものはこんなところにはなかった筈だ。
自分が炎天下の下でスポーツに励んでいる中、こんな日陰でこいつらは何をしてるのだろうか、と怪訝にその場にしゃがみ込んでベンチの下を覗き込んだ。
すると、
ズルズル、とバケツがこちらへ寄って来る。
独りでに
では勿論なく。バケツの縁をがっしりと掴む手があった。
バケツから手、そしてそれに連なる腕と辿って、リョーマは自分の右隣を見た。
そこには、巨躯をひしゃげさせてバケツを手繰る乾の姿があった。
ついこの間の校内ランキングで負けを喫した緑色のジャージを着た彼の姿が。
「…なにやってんすか、乾先輩」
膝を付いて、背を屈めて、なんとも窮屈そうにしてバケツをベンチ下から取り出す年長者をなんとも冷ややかな目線でリョーマは見た。
しかし、そんなリョーマの質問に答えを返すこともせず、苦心して乾は漸くバケツを取り出していた。何とかバケツが陽の下まで引きずり出してから、ふう、と息を吐き出した。疲れたのだろう。
不可解な行動をする乾を放っておいて、リョーマは立ち上がって目の前のベンチへと腰をどすんと下ろした。
元はと言えば、自分の番のミニゲームが終わったから、とベンチに小休止に来たのだ。
じりじり、と照りつけて来る太陽をなんとか自分の頭に乗っかったキャップは遮ってくれるものの、大地の照り返しや溌溂と動き回ったせいで額と言わず、体中から汗が吹き出て来る。
喉もすっかり渇いてしまった。何か、飲みたい。
そう思った時、ずい、とリョーマの目の前に何かが差し出された。
「越前。飲み頃だ」
きらり、と日光にスクエアグラスを反射させた乾が眼下に居た。ベンチの傍にそのまま腰を下ろし、片手はやはりバケツの縁を握ったまま、そしてもう片方には…、
白い瓶に紺の文字で見目も明らかに『牛乳』と書いてある。
それが目の前に差し出された瞬間、瞬時にしてリョーマの顔色は何とも嫌そうな顔つきに豹変した。うんざり、そんな言葉が的確だろうか。
確かに、氷水で冷やされて、日陰に置いておかれたのならば、キンとよく冷えているのだろうがモノがモノだけに、リョーマの物欲の触手は動きようがなかった。
そんなリョーマの内心などお見通しなのだろうに、乾はきらきらと輝かんばかりに晴れ晴れとした顔で更に牛乳瓶をリョーマへと掲げた。
「一日、3本だ」
「…いッス」
ぷい、とそっぽを向いて全身で拒否の態度を表せば、困った様に乾の眉がハの字に曲がった。
「身長イコール、ショットの威力の向上であり、移動範囲の拡大でもある。効率良く身長を伸ばす為には、やはり『牛乳』ということが俺自身によって証明されている」
「…それで?」
どこか遠くを向いたまま、嫌気の差した顔そのままで無愛想にリョーマは相槌を打ってやる。
「まず、カルシウムは、骨や歯の形勢に重要。手軽に摂るには、」
そのタイミングで、乾はバケツの縁に掛けていたもう一方の手を氷水の中にざぶりと漬け込んで、中からもう一本牛乳を取り出し、両手に牛乳瓶を掴んでそれをリョーマに掲げてから口を開いた。
「牛乳が最適だ」
「…ふーん」
とても興味が無さそうに、否、実際これっぽっちの興味も抱かず、リョーマは尚も遠くを見詰める。
「そしてビタミンB2は成長を促進する。牛乳神話の背景にある、最重要要素だ。それからビタミンA、視力を保つ、成長促進、美肌など、様々な効能がある。手軽に摂るには、」
また、リョーマの死角の外でざぶりと飛沫の音がする。その音に、ちらり、とその方向を見下ろせば、左手に牛乳瓶を1本、右手で牛乳瓶2本を持ってこれ見よがしに差し出す乾の姿があった。
目線が合う前に、リョーマがさっと視線を別の方向へと向けた後に、テノールが響く。
「牛乳が最適だ」
「…そッスか」
「つまり、越前の身長が中学三年間で175cm以上になる確率を72%以上にする為には、」
すっく、と突如乾は立ち上がった。
今度は頭上から牛乳3本を突きつけられる。
「牛乳が最適なんだ」
「へーえ、そうなんスかー……」
「なんだ?つれないな。もっと能弁垂れて欲しいのかい?」
「ノーベンって何」
ベンチの肘置きで頬杖を突いて、リョーマはコートの遠くを見つつ。
随分と汗も引いてきたし、そろそろ行こうか、と思っていたところで、
「つまり、説教のことだ」
とん、と音もさせず、リョーマの隣へと手塚が腰を下ろした。
正しく、振って湧いた、という表現が適切な程、唐突に現れた手塚の顔をリョーマは振り返った。唐突の出現なのに、その顔色は驚いた様子は微塵も無い様子に、やれやれ、と乾はいからせていた肩を竦めた。
「部長、押し売りがさっきからうるさいんスよ」
「言ってやるな。乾なりの親切のつもりなんだ」
「つもりってなんだい、つもりって。ちゃんと親切心から言ってやってるんだよ」
失礼だな、と乾は牛乳を両手に持った姿勢で、すごく嫌そうな顔で言った。
「押し売り、と感じられている時点で小さな親切大きなお世話になっているだろう。自分で気が付かないのか?」
ゆっくりと足を組み、睨む様にして手塚は乾を見上げた。
ふと、手塚は乾が両手に持つ牛乳に気が付いた。
巨躯の男が小さい少年の目の前に仁王立ちになって牛乳瓶を3つ持っている図というのは、今気が付いてみても明らかにおかしい。
つやつや、と水滴を付けた3本の牛乳瓶。それに向かって手塚は手を差し出した。
「貸せ」
「え?ああ…」
いきなり、何なんだろうか、と内心訝しがり乍らも、乾は両手で持った瓶を素直に手塚に渡した。
「越前が飲んでくれないんだ」
「それはお前の提示の仕方がおかしいからだろう。威丈高に振舞ってもコイツは言う事を聞かんぞ」
カラン、と少しばかり瓶同士をぶつけつつも、手塚は瓶の括れの部分を寄り合わせて小器用に片手で持った。
リョーマよりも指ばかりは細いくせに、手の平は一人前に広いものだから、きっと手塚にとっては造作も無いことなのだろうけれど。
そして、その掴んだ3本の瓶を持って、まだベンチに頬杖を付いたままのリョーマへと正面を向いた。
その様に、乾は苦笑した。
どんな提示の仕方をしたとしても、きっとこの一年坊主は飲みたくない、の返答を返すだろうと予想していたからだ。
大好きな手塚からの命令だとしても、部で絶対権力を持つ部長からの命令だとしても、きっと彼は首を縦には振らない。
手塚がどう空振るか、見物だな、とこの時乾は思った。
「越前」
名を呼べばちら、と横目で手塚を見る。その手に件の瓶が握られているのが見えているのか、矢張り嫌そうにリョーマは顔を顰めた。
さあ、どう出る?手塚。
乾は観客に徹した。
一人の観客をすぐ傍に据え乍ら、摘まみ上げる程度の仕草で瓶を持ち、手塚はゆっくりと足を組み直した。
そして、膝に瓶を持たない右手の肘を付き、その先の手の甲を握る様に丸めて顎を乗せた。
自身の顔と、リョーマの顔の間には摘まれた3本の瓶。
少しばかり頬杖を付いた顎を引いて、少し上目遣いにリョーマをじっと見て、
「飲みなさい」
少し険しい声音でそれだけを告げた。
幼子に言動の注意をする母親の調子にそれはよく似ている、と観客である乾は思った。
「…」
「…………」
手塚は態勢を変えぬまま、凝っとリョーマを見据える。リョーマも凝っと手塚を見返していた。
彼は、どう出るか。乾だけが妙にそわそわしていた。
「……………」
不意に、リョーマが頬杖を解いて行動を起こした。
「あ」
間抜けに飛び出た声は乾のもの。
乾の目の前で、リョーマは突き付けられている3本の瓶を手塚から受け取り、素早い動作で栓を抜くと目にも止まらぬ早さで乳白の液体を喉に流し込んだ。
ぽかん、とその時乾はだらしなく口を半開いていた。
放心にも近い状態が解けぬ間に、ぐい、とリョーマは口の端に残った水滴を拭って、
「飲み頃」
それだけ言って、さっさとベンチを立ってコートへと向かっていった。
「なに?今の」
後に残されたのは乾と手塚。
手塚はすっかり先程の奇妙にも思える姿勢を正して、至って普通にベンチに腰掛けていた。
乾の放心状態が解けたのはつい今し方のことだ。
問われて、表情の無い顔で手塚は未だベンチ前に立ったままの乾を見上げて、回答をくれてやった。
「敬語で叱るように言ってもらうのがあいつの中でブームなんだそうだ」
「手塚限定で、じゃないの?」
「さあな。そこまでは知らん」
今度、アイツに物を頼む時はお前もそうしてみろ、と手塚は人の悪い顔で口角の片端を擡げた。
勝利の栄光を君に。
乾に。与えてあげてください、誰か。(オオザキは放棄)
勝利の栄光は手塚に。
SRをお持ちの方ならにやりとする遊び心も交えつつ。
書きたかったのは、飲み頃だ、と牛乳をさも爽やかそうに掲げる乾と飲みなさい、とママっぽく言う手塚です。
ありがとうございましたっ
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