おちていく
明けて翌日、その日はリョーマは気持ち悪い程の上機嫌ぶりであった。
いつもはクラスメイトに進んで挨拶などしないのに、登校してくるクラスメイト一人一人に笑顔で挨拶を交わしていたし、授業に於いては普段は睡眠時間と化す英語の授業でも目を爛々と輝かせて起きていた。
リョーマを取り巻く人々は、こぞって内心でリョーマの異常さについて呟きあった。
当のリョーマはと言えば、今日が手塚とようやくキスができる日とあってどうしようもない高揚感に包まれていた。
放っておけば顔がにやけてくるが、それを自制することも最早放棄していた。
根幹からして自分に正直なのだ。
さて、一方の手塚はというと、朝からいつも以上に表情が硬かった。
眉間の皺は不動のもので、怒っている訳ではなく、ただ緊張しているだけだったのだが、周囲には今日は機嫌が悪いのだな、という印象をつけた。
放課後の部活が始まっても二人はこの調子だった。
「越前、今日はどうしたんだよ、気味わりいぞ」
「あ、桃センパーイ。なに?オレがにこにこしてちゃいけないわけ?」
「いや、お前、にこにこっていうかニヤニヤしてるぞ」
「えー?そうっすか?」
そんな部活の合間、リョーマと桃城が話していた。
「なんだよ、イイ事でもあったのかよ」
桃城がリョーマの脇腹を肘で冷やかす様に突ついた。
「イイ事があったっていうか、これから起こるんスよ」
リョーマの奇異な笑顔は減少する兆しがまるでない。
「なんだよ、何があるんだよ」
「えー、仕様がないなあ、そんなに知りたいんだったら教えてあげますよ」
桃城はそんなにしつこく聞いた訳ではないのだが、多分リョーマは誰かに今日の事を話したくて仕様がなかったのだろう。
桃城に屈ませて、その耳元にこう呟いてやった。
「今日、部活終わったら部長との初キスが待ってるんスよ」
「は・・・?」
言われた意味は判る。
リョーマと手塚との間のことも知っている。
知ってはいるが…。
「そ、そうかそれでそんなに嬉しそうなのか」
「うん!! 長い道のりだった………」
そう言って遠い目をするリョーマの背にどこか哀愁が漂っていた。
リョーマが大変だったことは判るし、同情もするが、男同士の恋愛について免疫の無い桃城には、正直どう言葉を返したものか困窮していた。
「手塚、今日、機嫌悪いのかい?」
「いや、そういう訳じゃないんだが…」
桃城とリョーマから少し離れて大石と手塚。
「まあ、手塚にも色々あるからね。悩みがあるんだったらいつでも聞くよ?」
「すまんな、助かる」
色々な部の面倒事で胃腸を壊していると聞いたが、そこに自分の悩みを聞いてもらっても構わないのかと少し逡巡してしまう。
けれど、もしもの時は一番頼りになる。
「で、今日はどうしたの。怒ってるっていうよりは、緊張してる感じだけど」
どこまでも人の心の内によく気づくと本当に感心する。
「いや、なに。今日、ちょっと越前と約束しててな」
「それで緊張してるのかい?」
「ああ」
そこで、一人大石は考える。
最近、乾から聞いた話では、二人の仲は手を繋いだり一緒に帰ったりしているだけだという。
その進展さの遅さ、そして、今日のこの手塚の緊張っぷり。
二つを結び付けて考えると、いとも簡単に答えが出た。
(キスでもするのかな、大方…)
でもそれを言えば手塚が動揺するかと思い、心の内だけで呟く。
今日、これからのことで緊張しているのに、「そうか、今日は越前とキスするんだな」なんて言えば、手塚が困ること請け合いだ。
不二は手塚を揶揄ってよく遊んでいるが、自分にはそういう趣味はない。
できれば、静かに見守ってやろうと思った。
そして部活終了時刻になり、手塚の解散の号令がかかって部室に向かう者はそこへ向かい、整備の当番の者は整備用具を片手にコートへ向かう。
リョーマは相変わらず手塚待ちの為に壁打ちに行き、手塚は今後の練習メニューの為に顧問のところへと大石と連れ立って行った。
それから半時間もすれば、部室には殆ど人はいなくなった。
残っているのは何人か欠けてはいるがレギュラーの面々ばかりだ。
そしてまた暫くすると完全に無人になり、そこへ手塚と大石が帰ってくる。
さっさとお互い着替えを済ませ、手塚は部誌にとりかかり、大石はいつも以上にさっさと部室を後にした。
本人としては、あのカップルへの遠慮のつもりだった。
そして手塚が部誌を半分ぐらいまで書き終わったところでリョーマが部室の扉を開けた。
「おつかれっす」
「ああ、ご苦労」
声に手塚が振り返ってみれば、物の見事に頬の筋肉が弛緩していた。
思えば、今日朝起きた時や朝練でもすでに緩み始めていた。
どうしてそんなに顔が緩んでいるのかの原因をよく知っているだけに頭痛がしてきて、それを緩和させようと眉間を人さし指で押さえた。
「越前」
「なに?」
「顔、緩み過ぎだ」
「いいじゃん、嬉しい事ににこにこしちゃいけないの?」
それは悪いとは言わないがお前の場合は度が過ぎる。
と手塚は思った。
「まあ、いい。さっさと着替えてろ」
そう言うと、振り返っていた顔をまた部誌に向けた。
リョーマはにやにや――本人曰くはにこにこ――しながら着替えを済ませていった。
暫くして着替え終わると、いつもの様に手塚の向かいに座った。
そして筆記具を握る左手とは違い、比較的空いている右手に腕を伸ばして手塚の指に自分のそれを絡める。
手塚は絡められてもそれを一瞥しただけで、また部誌に視線を戻す。
リョーマが手を握ってくるのはいつものことだったから手塚もいつもの様に放っておいた。
リョーマは手を握りながら、そのまま手塚の右隣へ器用に片手で椅子を抱え込んで移動して来た。
それに手塚が気を留める振りはない。
握っている手塚の手をリョーマは自分の眼前まで掲げて、手塚の手の甲にそっと唇を押し当てる。
「…越前」
「なに?早く部誌書いちゃってよ」
そうは言われても、手の甲へのキスで今日これからのことが否が応でも脳裏を掠めて、手塚の左手が微かに震えていた。
いつもは丁寧すぎる程丁寧な文字が少しばかり歪み始めていた。
そんな手塚の様子に気を良くしたリョーマが手の甲に再度唇を落としたり、指の一本一本にまでキスを落とす。
手塚に触れる事でリョーマの高揚感も次第に増して行く。
「越前!」
されるがままの右手に愈々文字が書けないくらい手先が震えてきて、手塚は批難の声をあげる。
「怒らないでよ、オレなりに緊張ほぐしてるんだから。
いきなり口にキスっていったらアンタ、凄く硬くなりそうだし」
言い様、親指から手の輪郭を唇でなぞって手首に唇を寄せる。
正論なのだかよく判らぬまま、手塚はリョーマの術中に落ちていく。
なるべく、右手に触れてくるものを気にしない様に留意しながら手塚は部誌を書き進めた。
その間もリョーマは手首を一周するようにキスをしたり、学ランから出ている右手に余す事無く自分の唇を押し当てる。
そして、手塚が部誌を書き終わるまでその行為は続けられた。
部誌の終わりに自分の名前を書いたところで部誌を閉じるが、手塚の視線はそのまま表紙から動かせないでいた。
「あ、書き終わった?」
「ああ…」
いよいよだと思うと、手塚の心拍数がどんどん上がってくる。
自分の耳にすらその音が聞こえそうな程だ。
じゃあ、と言い乍らリョーマが手塚との距離を詰めてくる。
リョーマとの近くなった距離を感じ乍らも手塚は部誌の表紙から目を離せない。
決して、部誌の表紙に面白いことが書いてある訳ではない。
ただ、只管に手塚は緊張していた。
昨日、覚悟を決めた筈なのだが、いざこの時になってみると、指の一つさえ満足に動かせなかった。
こちらに顔を向けてくれない手塚に苛立つこともなく、リョーマは手塚のその頬に少し椅子から腰を浮かせ瞼を閉じてキスをする。
中腰から完全に立ち上がって、次は頬骨に、それからこめかみへと絶え間なくリョーマは手塚にキスを施していく。
握ったままだった手塚の右手に力が篭る。
手塚のフレームレスの眼鏡を左手で外し、そっと机の上に置く。
そして、最後の伺い立てとでも言う様に上瞼にキスをすると、手塚の瞳がそれに隠れる。
手塚も、いよいよ本当に覚悟を決めてリョーマに正面を向けた。
空いていた左手を手塚の右耳に掛け、唇の端に音を立てて吸い付く。
手塚の顔がどんどん紅に染まって行く。
そして、手塚の唇にリョーマのそれが触れる。
触れる前に軽く上唇を舐め上げ、唇を重ねた。
一度触れてから角度を変え、また触れる。
完全に一文字に結ばれた手塚の唇の間にリョーマは自分の舌を差し込んできて、半ば強引に手塚の口腔に捩じ込んだ。
それから掻き回す様に上の歯列の裏側や上顎を舌で犯す。
じんわりと浮き出てきた手塚の唾液すら自分の舌に乗せて自分の口内へと取り込む。
リョーマの手を握る手塚の力が強くなって、リョーマの手の甲に爪を立てた。
しかし、まだリョーマのキスは止まない。
手塚の唇にリョーマは適度に唇を丸めて押し当て、声すら漏らさせない。
あたかも、手塚の全てを吸収するとでも言う様に。
上歯列や上顎を堪能し終わると、今度は下歯列に舌が及び始め、細かに歯列をなぞり終わると手塚の舌に絡ませる。
やたら強く吸うだけではなく、強さに緩急を付けたり、舌の先まで引いたり、時には根元程まで伸ばしたりすると手塚の肩が微かに震え出した。
手塚の舌を存分に味わい終わると、侵入ってきた時と同じく、上歯列をなぞって舌を引いていき、下唇を甘噛みして漸く離れた。
「ごちそうさまでした」
笑顔でそういうリョーマとは対照的に顔を真っ赤にさせ息も荒れた手塚がリョーマを睨んだ。
「なに?不満だった?もう一回する?」
「いや、いい。――そうじゃなくてな、お前、約束と違うじゃないか」
息を乱し乍ら言う手塚の言わんとする意図がよく判らなくて、リョーマは小首を傾げてみせる。
「なんで?キスするって言ったじゃない」
「そうは言ったが誰もこんなのするとは…!」
「ははーん、アレでしょ、部長、軽いのだと思ってたんでしょ」
半眼で意地悪くそういうリョーマにますます顔が紅潮する手塚であった。
「軽いのなんて、オレには挨拶程度だもん。オレの中でキスって言ったらこのくらいだよ?」
「せめて、事前に言えっ」
手塚は批難の声をあげるが、顔を深紅に染めて、目は潤み、息も上がっているその様はリョーマの欲情を更に加熱するものだとは知らない。
「そんなに文句言うんだったら、部長のお望みのキスしたげるよ」
そのまま手塚に二の句を次がせないうちに顔を傾けて手塚にキスをする。
今度はチュッと卑らしい音を立てて。
「これで満足?」
「………」
もう言葉も発せず、完全に固まってしまった手塚を見下ろし乍ら、まだ繋いだままの指に唇を触れ、そっと離してから、机に放置していた眼鏡をかけてやった。
解放された手塚の手は握った形のまま固まっている。
足下に置いていたテニスバッグを担ぐとリョーマは手塚の肩を叩いた。
「部長?帰ろうよ」
「あ、ああ…」
いつもの様に声をかけたリョーマの一言で漸く現実に帰ってきた手塚は自分のテニスバッグを肩に担いで、立ち上がる。
そして、いつもの様に部室を出た。
先程の、手塚にとっては非日常の光景を綺麗さっぱり忘れたかの様に。
そんな手塚とは違い、リョーマは先刻のキスで手塚に堕ちて行く自分がいた。
今迄にキスはしたことがある。
けれど、自分が仕掛けたにも関わらずこんなに蕩けそうになったキスは始めてで、手塚に緩慢ながら、けれど確実にリョーマは堕ちて行っていた。
(あれが素だって言うんだから、本当に恐ろしい人だよ、アンタって)
空はもう茜色。
風は見事に春色で、それが手塚の後を追うリョーマの足を速くさせた。
手塚の隣に並びながら、リョーマは一人、自分の唇をなぞった。
おちていく。でした。
これにて、first-x編は終わりでございます。
もう、この帰り道、リョーマはにやにやがこれまで以上に止まらなかったと思います。
そして、緊張で歪んだ部誌の文字を大石なんかが見つけて、ああ、ホントに緊張してたんだな、手塚…っていうか、したんだな、昨日。って少し哀愁に暮れてほしいです。
キスが済んだら、次はお決まりにアレでしょう。そう、アレです。
つ、ついに私にもこの場面が来たか…私にも哀愁が漂ってきました。
ここまで読んでくださってありがとうございました〜
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