こいじ
















夢の中にまで、その情景は出てきた。
忌わしい悪夢の様に、その場面だけがリピートを繰り返すせいで、その日の晩、手塚は何度も魘され、眠りも浅く、朝が来た頃にはすっかり憔悴しきっていた。

出かけぎりぎりまで、母親に心配されつつも、手塚は足取りも重く家を出た。

こんなにも手塚の脳内を占める出来事といえば、つい先日の休みに出かけた釣りが原因だった。
厳密には釣りがどうかしたということではなくて、その釣りに行った現場で起こった事件。否、手塚からすれば事故、と言った方がいいかもしれない。
水中の、四肢の感覚も鈍い領域で、突然奪われたファーストキス。
よりにもよって同性に。
犯人の名は、

越前リョーマ。

手塚の部活の部長も務める2つ年上のその人物は確かに以前、自分に仲間意識以上の好意を持っていることを伝えた。
それに手塚は未だ返事をしておらず、ずるずると、実に中途半端な関係が続いていた。
リョーマも返事を無理に急かす真似はしなかったことも原因のひとつだった。
その和やかに共に過ごす時間と曖昧で微妙な距離が手塚には丁度良かった。

それを、リョーマが飛び越えた。
断りもなく。

足が鉛の様に重い。それでもいつもと変わらないスピードで前進は続いた。
気が付けば、正門前。
まだ日も低い、生徒達が登校してくる前の朝練の時間帯。

足取りだけは日常通りに、さくさくとコートへと向かう。
体だけはいつもと何ら変化がない。脳だけは低血圧な性分でも無いのに、霞掛かった様に朦朧としている。
正常通りに動いている筈の視覚も聴覚も、確りと脳は感知できずにいた。

だから、気付いていなかった。
道程にリョーマがこちらには背を向けて立っていたことが。

よく周りが見えないまま進む手塚と、その手塚が進むであろうコースに立っていたリョーマ。
その背に、ゴツン、と手塚がぶつかったのも訳ないことだろう。

「ん?」

背中に何かの衝撃を感じて、リョーマが振り返る。
手塚も何かにぶつかったことで、ぼんやりとしていた意識が一瞬、明瞭になった。

見下ろすリョーマと見上げる手塚。
数秒間、特に通わせる気持ちも持たぬまま、ただぼんやりと見詰め合っていた。

「…………」
「…………」

そのまま数秒間。二人揃ってその場に無言で立ち尽くす。
不意に、

「わぁっ」

手塚の口から悲鳴にも似た素っ頓狂な声が上がったかと思えば、そのままリョーマの脇を擦り抜けて部室へと駆けていった。

「……?」
「よ。えーちぜんっ」

朝から何事だろうか、と取り残されたリョーマが傾げるその首元に、がばり、と真横から菊丸が飛びついてきた。

「手塚、慌てて逃げてったけど、なんかしたの??」
「何も心当たりは…………。ああ、アレ、かな…」

ぼんやりと、リョーマもあの日の事を思い出す。
『アレ』と代名詞を用いられても当日現場に居なかった菊丸に訳が判る筈もない。

「何したの?」
「ああ、うん、まあ…色々?」
「またなんかスケベな事でもしたんじゃないのー?あんま後輩からかってやんなよ?」
「からかってなんかないって」

まだ首に絡み付いたままの菊丸の少し上にある、リョーマの口許からくすりと笑いが漏れる。

「逃げるってことは、ちゃんと意識してくれてるんだよな…かっわいい奴…」
「なになにナニゴト?」
「ひみつ。ほら、そろそろ朝練の支度しないと」
「ぶー。なんだよ、ケチケチーッ」

唇をツンと尖らせて、するりと菊丸の腕は離れた。そのまま、コートへと駆けて行った。
再び取り残されたリョーマは、その場で何とも楽しそうにニヤリと笑った。悪戯を思い付いた子供の顔で。









朝練が始まっても、手塚はコートにこそ出て来はするものの、耳の辺りに熱を保たせたまま視線はほぼ足下を見ていた。
心ここに在らず。
いつもの手塚ならばしないようなケアレスミスも頻繁に繰り返し、一様にして部員達は首を捻った。
そんな中、にこりと笑顔を湛えていたのはリョーマ一人だった。


この日、手塚にとっては悪夢の延長であったと云っていい。
授業中にも気はそぞろのままで、ノートを取る手は上手く動かないし、当てられてもいつもならば明確に答えを返すべきところで言葉に詰まった。体育の時間に於いては飛んできたサッカーボールを受け止め損ねた。
それに加え、いつもなら昼休みにしかやってこないリョーマが毎時間の休み毎に顔を見せる。
特別、声をかけたり、席に近付いたりするのではなく、廊下側の窓からひょこりと顔を覗かせ、ひらひらと笑顔で手を振って行くだけだ。
移動教室の際にも目敏く見付けられた。
これを奇異な行動と言わずに何と言うのだろうか。的確な言葉を手塚は知らない。

「手塚、飯食べよう」

そして迎えた午前と午後の折り返し、生徒達は待ちに待った昼休み。
いつも通りに弁当包み片手にリョーマは手塚の元を訪れた。

「あの…部長………」
「なに?まさか弁当忘れた?購買行く?オレ付き合うけど」

席から立ち上がる気配も無く、もごもごと言葉を濁らせる手塚の顔を覗き込む。
反射的に、手塚の顔がリョーマとは逆の方向へ逸れる。

「いえ、持ってきてますけど………」
「そっか。じゃあ、今日はどこで食べよっか。裏庭とかどう?今の時期涼しくていいと思うんだけど」
「あの…!」

饒舌に話を進めるリョーマの顔も見れないまま、手塚は言葉で遮った。
語尾の強い調子に、背かせた顔を追ってくる様に更に覗き込まれた。視界の端にふわふわとリョーマの猫毛の影が映る。

「どうして、今日に限って執拗に俺に構うんですか…」
「昼飯はいつも一緒してるでしょ?」
「そうじゃなくて…普通の休み時間だとか、今日の朝練の時も…」
「ああ。そっちね。だって、手塚が意識してくれてるのが嬉しかったからさ」

つい。とリョーマの頬は緩んだ。

「今日、朝イチにオレの顔見つけて逃げたじゃない?」
「あれは…その…」

昨晩から見続けた夢の中のリョーマの顔と見下ろしてきた顔とがダブったせいで、デジャヴの様に喚起されてしまったから。
唇にすら灯るようなあの日の感触が蘇って思わず、そう、リョーマが指摘する通りに逃げた。

「だ、第一、部長こそどうしていきなり、あんな真似を…」
「つい、って言ったじゃない」
「つい…でしないでくださいよ」
「なに。手塚ったら初めてだったの?もしかして」

意地悪く、リョーマは薄笑い、問われた方の手塚は顔全面を深紅に染め上げた。
顔色で返事をしている様なものだ。
素直な反応に、リョーマは懸命に喜々と声を立てそうになるのを押し殺す。それでも、くっくっ、と噛殺しきれなかった笑い声は滲むけれど。

「別にね、返事が貰えないから焦ってた、とかじゃなくて、ホントに衝動的に。『つい』」
「…中々、答えを出せていなくてすいませんでした」
「いいって。のんびり考えて」
「…あの、ちゃんときちんと考えますから…だから、その…」

もごもごと再び語尾を濁す。
普段、ハキハキと物事を言う少年のこうした態度は、結構に希有なものなのではないだろうか。

「だから?その続きは?」

貴重な手塚の一面が見れた事、知れた事でリョーマの上機嫌さは更に上昇した。
花が舞いそうな程、にこにこと惜し気のない笑顔で問い質せば、言葉を濁らせつつも手塚も発言の先を続ける。

「なので、それまではああいう軽卒な事はやめて下さい」
「エー」
「いや、あの、えーじゃなくて」
「衝動的なものって言ったじゃない」
「堪えて下さい」

生理的欲望を堪えろだなんて、酷な事を言う。
リョーマは苦笑した。

「頑張ってはみるけどね。じゃあ、オレに『つい』色々させない様に、あんま可愛い顔しないでよ」
「可愛い顔…って。そんなの、した覚えないですよ」
「素かよ。天然ってのは恐ろしいよねー」
「天然…」

脱力感に襲われつつ、ぽつりと呟く。




先が見えかけている様で、鮮明には見えてこない末路に、こうしてリョーマと手塚はまた身を投げた。





















こいじ。
恋路。
平仮名なのは、こう、明確でないもの、という辺りに由来します。
まだ行き先の見えないもの、なノリで。でも、こいじ、で変換キー押すと恋路でしか単語としての変換はしなかったので、ほぼ一つの事を指すとかそういう意味も込めまして。
はっきりしてるようではっきりしてない。そんな恋路。

18681hitの町田あきこさんからリクを頂戴しました。
年齢逆設定で。とのことでしたので、前回に当たる
水の中(20のお題)の続きでさせて頂きました。リクありがとうございましたv

18681hit御礼〜v
othersトップへ
別館topへ