無色・無臭の気体。化学式 CO 水に溶けにくい。
点火すると青い炎を出して燃え二酸化炭素になる。
還元剤に用いる。
メチルアルコール・ホルマリンなどの製造原料。
木炭・燃料用ガスなどの不完全燃焼によって発生する。猛毒。
一酸化炭素
「…不完全燃焼」
昼下がりの図書室。昼休みの直前からリョーマはここにいる。
図書委員だけの特権で、その日図書当番に当たっている者は昼食を図書室の隣にある準備室で食べて良い事になっている。
特にリョーマの場合、昼食後に昼寝をして図書当番に遅刻やら無断欠席やらの前科があるせいで図書室の司書から当番の日は昼食を此処で摂るようにきつく言い聞かせてあった。
箸を口で咥えつつ、視線は手許の本に。
得意教科でもある化学関係の本に微かばかりの興味を覚えて開いていたページ。
「不完全燃焼…」
呟く言葉の裏には手塚の顔が過る。
昨日、一瞬にして自分と恋仲であったことを記憶喪失という形で失くしてしまった恋人。
記憶喪失だなんて、漫画や小説の中の事、所詮絵空事だと思っていた現象が起きた。
雨の日、学校の階段からの転落。それが手塚の記憶の一片を消去してしまった。
何でも、その時考えていた事や、手塚にとって何よりも重要な事を忘れてしまったらしい。
手塚にそれほど大切に想われていた事実は嬉しいけれど、こんな形でそれを知るだなんて皮肉にも程があるだろう。
そし、恋仲であった事は忘れたにも関わらず、手塚の中でリョーマは一人のテニス部員として残っている。
それがリョーマの胸を苦しめる一因でもあった。
いっそ、全て忘れていてくれたなら…
「まだ楽だったのに」
中途半端過ぎる。それが一番酷だ。
「…不完全燃焼」
燃え切らなかったが為に猛毒となり、自分に襲いかかる。
彼だけが自分への想いを忘れ、自分は明瞭に彼への想いを持っている。
部活の先輩はもう一度片想いが出来るからいいじゃないかなんて軽口を叩く。
その先輩から手塚の容態を知らされた今朝の事―――
「ホントに何やっても戻らないんスか?」
隣り合って手塚に言い付けられた罰走を走る。
走り始めて3週目。お互い、息は未だ上がらない。
「部長の記憶」
「ああ、医者の見立てではね」
「医者…って、保健室に運ばれたんじゃないんスか?学校で滑ったんでしょ?」
そこでリョーマは漸く、乾が何故手塚の容態の詳細を知っているのかを疑問に思った。
その事も先の質問に重ねて尋ねれば、彼は気付くのが遅いよと揶揄する様に笑った。
「手塚が階段を落下した時、丁度通りかかってね。俺もその時帰りがけだったのさ。
で、手塚の意識が無かったものだから保健室に運んで、保健医に軽く診てもらった。その時、俺も一緒に容態を見させてもらった。そこかしこに小さい乍らも打撲の跡があったから大事を取って保健医の車で病院に向かって、そこで医者に診てもらったら、」
「記憶喪失、って?」
「ああ。治る見込みが無いっていうのもそこで聞いたんだよ」
「そう…ッスか」
てっきり記憶喪失の症状は乾の見立てだと思っていただけに、宛にはならないのではないだろうかという僅かな期待も、玄人の判断だという事実の前に打ちのめされる。
無念さに幾許かリョーマの速度が落ちる。
後方に下がってしまったリョーマを乾が振り返れば彼は絵に描いた様に見事にがっくりと肩を落としていた。
「そんなにショックかい?越前」
「そら…オレだってショックぐらい受けますよ」
視界に入る彼方のテニスコートで薄らと見える手塚の中には今まで短いながらも沢山の掛替えの無い思い出がもう詰まっていない。
それを所持しているのは、取り残されたリョーマのみ。
自分は確かに覚えているし、その過去は事実だというのに、彼は一欠片として覚えていない。
それが、どうしようもなくリョーマの心を抉った。
「…」
「…」
肩を落とすリョーマに居並ぶ迄に乾もスピードを若干落とす。
傍から見れば、残念無念な後輩にどう声をかけたらいいのか困っている様にも見受けられる。
「…」
「…」
リョーマも自分の心の整理と現在位置の確認とで、言葉は無い。
治まりそうにもない喪失感。ぽっかりと、何かを失くしてしまった空虚感。
「…」
「…君は」
不意に乾から声が降る。リョーマは視線を上げない。
「君は前に俺と戦った時、言っただろう」
「…」
「『データでくるならその上をいくまでだね』って」
「…それが?」
今のこの空しさを埋めてくれるのだろうか。
「医者が出した見立ては飽く迄、医者の知識の上でのデータの結晶でしかない」
「…」
「君なら、こういう逆境の時も不敵に笑って同じ様に言うかと思ったよ。「それがどうしたんだよ」っていう顔をして」
「…」
「正直、行動を起こそうともせず、自分の心の整理に手一杯になる君には軽蔑を覚える」
「…」
「手塚が大切なんだろう?それなら、医者が出したデータを越えてみるべきじゃないのかな?」
以前の俺のデータを越えたなら。
言外に乾はそう滲ませる。
「…」
リョーマは返す言葉をこの時、持てなかった。
さあ後1周だ、と明るい声音で言った乾の声も耳の中で反響していた。
「データを越えろ…ねえ。あの人らしいアドバイスって言えばそうなんだけど…」
そんな簡単にいくものだろうか?
相手はあの堅い固い手塚の脳味噌だと言うのに。
ふぅ。
リョーマは息を吐き出す。
目の前の母親の手製の昼食にも食欲が出てこなくて、リョーマは咥えていた端を箸箱に、弁当箱に蓋をして、椅子から立ち上がって準備室を出た。
時計は、昼休みの開始の時刻と告げていた。
そして図書室のカウンターに出たリョーマを待ち受けていたのは、有ろう事か話題の手塚国光その人だった。
手塚が図書室を利用するのは不思議ではない。そして、こうして昼休みのイの一番にやって来ることも。
こう云った習性は彼の中で焼き残ったモノとして在るのだ。
そこに在った筈の自分の居場所が無いことに矢張りダメージを喰らう。
彼の姿を見る度に、どこかから声がするのだ。
或の中に御前の居場所はもう亡い、と。
欲しくなる。
その存在を視る度に。
欲しくなる。
彼、唯一人が。
憶い出す。
彼を自分の幼い腕で捕まえていた時の事を。
もう、何百年も遥か太古の事のようだ。
憶い出す。
彼と、最期に触れた時の事を。
「越前」
前は違った。もっと、自分を呼ぶ名前の陰に何かを秘めていてくれた。
「務めの最中に呆けているとは何事だ」
小言も、前の様な温度は亡い。
彼は、ある意味全てを喪くしてしまった。
「…すいません」
何をすれば、貴方は此処へ還ってくるのか。
還って、来い。
一人だけ勝手に忘れるなんて、身勝手にも程がある。
置いて行かないで。
「まあ、いい。さっさと図書委員の務めをしてくれるか?」
返却の本なのだろう。小脇に抱えていた本をカウンターの上に差し出した。
リョーマもそれに手を伸ばす。
指先が触れる間際に手塚の指は去る。
置いて逝かないで。
掴もうとする腕は空を切る。
リョーマに背を向けて、手塚は本の森へと足を進めていた。
猛毒が襲いかかる。
不完全に焼け爛れてしまったが故に、心を殺しにやってくるナニカが。
一酸化炭素。
リセットその続き。
もうちょい続かせる感じです。
連載系は決まってえちが苦しみますね…わたしんとこって。
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