ちいさな声で
















夕日が静かに忍び寄るアスファルトの上を、バランスを崩すことも無くそれは爽快にしゃかしゃかと後ろに手塚を乗せてリョーマは自転車のペダルを漕いだ。


半ばリョーマのせいで手塚の愛用の眼鏡を割ってしまって、販売店へと向かう道程。

過ぎ去っていく風に夏の匂いを感じつつ、手塚は自転車に揺られる。
視界はいつものガラスが無いせいで輪郭すら危ういが、こうした世界は好き好んで見たりする機会も無く、どこか楽しむ思いを抱きつつ、ペダルを漕ぐリョーマのまだ小さい背中に頬を寄せた。
薄いシャツ越しのリョーマの体温が気持ちいい。

手塚が瞼を下ろして間もなく、キキッ、とブレーキがかけられた。












「あ、これ乾先輩と同じやつじゃない?」

真四角のレンズに黒いフレームの眼鏡を手に取り、リョーマは掲げてみせる。
その横で、前に使っていたものと大差ないだろうと思う眼鏡を探しつつ、手塚は陳列された眼鏡の群れを相手に目を凝らしていた。

リョーマが手塚のシャツを引く。

「ねえ、部長。これ、乾先輩と同じやつじゃない?」
「ああ、そうかもな」

リョーマを一瞥して、淡々と手塚は答える。確かに乾のかけているものと形は似ている。
だからと言って、これと言った感想は特になく。
さらりと答えを返して来る手塚にどこかつまらなさそうにしつつ、リョーマは手にしていた黒縁のスクエアグラスを元の場所に戻した。
そのまま、手塚の手を握ったまま、先へと進む。

リョーマに未だ手を引かれる形をとりつつ、陳列台を睨みながら手塚も後を追った。

店員と自分達しかいない、やけに広くて清潔な店内に二人分の足音が響く。

「前はたしかフレームないやつ掛けてたよね?」
「ああ…」

例え、周囲が静閑過ぎても、リョーマの声量に遠慮は全くと言っていい程なく。わんわんと大業に店内に響いていた。
リョーマが手塚に話しかける度に、ちらりちらりと、店員の視線がこちらを向く。他に音のするものが無いせいでリョーマの声が目立ち過ぎるのだ。
店員の不躾な視線に意も介さず、リョーマは尚も声を落とすこともなく、手塚へとぺらぺらと喋りかける。店員の視線が何度かこちらに注がれて、流石に手塚も気になり出した。

「越前」

先を行くリョーマの肩に手をかけ、ぼそりとその耳へと声を零す。
至近距離で吐息にも似た声音で自身の名を呼ばれ、リョーマの身は自然と粟立った。
声の注がれた方の耳を、何度も目を瞬かせつつ空いた片手で押さえる。

「な、なに?急にびっくりするじゃん」

再び白い店内の壁にごつんごつんとぶつかってリョーマの声が響く。
ちら、と気難しそうな顔の店員がこちらをまた見た。

「もう少し、声を落とせ」
「え?なんで?」
「いいから」
「んー?うん、わかった」

普段ならば、手塚相手だと云えども、謂れのない事には従おうともしないけれど、邪魔立てのない剥き出しの双眸で窘めるように叱られるというのはどうにも弱い。
いつもある筈の眼鏡があれば、素顔よりもどこかきつい印象があるから、きっとどこか反抗的になってしまうのだと思う。
けれど、今の素顔のままの手塚というのは鋭い印象を持ちつつも柔らかな感じがしないでもないから、きっとそのせいなのだろう。どこか母親染みたところがあるというか。

有無を云わせない、のではなくて、言う事をついつい聞いてしまう、そういう印象だ。

「あ、これなんか前のと同じじゃない?」

不意に陳列棚の中にノンフレームの眼鏡を見付け、手塚の言い付け通りに声を落としてそう告げれば、声が小さ過ぎたのか、将又、先程までの声量とのギャップのせいか、聞き損なったらしく、え?と手塚が返してくる。

「だから、」

くい、と手塚の腕を引き、爪先を少しだけ上げて手塚の耳元へと口を寄せて、

「これ、前に掛けてたのと同じデザインじゃない?」

ぼそぼそと耳朶の中へと囁けば、


ぴくり、と手塚の肩が小さく跳ねた。

「?」
「…越前、やらしい」
「は?」
「こ、声が…」
「声小さくしろって言ったのアンタじゃん」
「そ、そうだが…」

不思議そうに首を捻るリョーマの前で、瞼を浅く下ろして手塚は視線を逸らせる。
ぽっかりと、薄白い頬が朱に染まっていた。

面映い、というその顔が、リョーマの雄の部分に火をつけることをそろそろ手塚は勉強した方がいい。

視線を逃げさせる手塚をじいっと見詰めて、酷く愉しそうにリョーマは小さく舌舐めずり。

「なに?ちゃんと言ってくれないとわからないデショ?」

先程よりも身を手塚に接近させて、言葉終わりに息を吹きかけて。思わず目を深く瞑った手塚の反応がより一層興を誘う。
繋いだ手も、何か堪えるようにぎゅうっと強く握られる。

「ほら、そんな顔、こんな公衆の面前でしてていいの?店の人に不審がられちゃうよ?」

声が小さいばかりか、わざと低くして、リョーマは囁く。

「そういう、声を、するな…」
「ソウユウ、って、どういう?」

ねえ、と告げる声は吐息にも似ていて。
手塚はその場から逃げ出したくなった。

「お客様」

更に手塚を言葉で攻め立てようと唇を開きかけたリョーマよりも早く、朗らかに微笑んだ店員の声が間に挟まれた。
折角、いいところなのに、とリョーマが険しい目つきで振り返っても、相手は恐らく百戦錬磨の接客業者。にこり、と、どこかの微笑みを絶やさない先輩にも似た笑顔で対応された。

「お品はお決まりになりましたか?」
「ええと――……」

リョーマは手塚を見上げる。この店に用があるのは自分ではなくて手塚なのだから、自分が受け答えしても仕様がないだろうと思った。
けれど、返答をすべきその人は、まだどこか平静には戻れていないらしく。朱い目許のままで陳列台のあちらからこちらまで視線を咄嗟に泳がせていた。

「あー……。これ、これください」

そんな手塚を見るに見兼ねて、リョーマはつい先刻見つけたノンフレームの眼鏡を指差した。
にっこり、と向かいの店員はまた微笑む。

「こちらですね?では、視力の測定など致しますので、あちらへどうぞ」

そう言って、くるりと身を返す。
後を付いていくべき手塚はまだ小さく右往左往していて、リョーマは苦笑混じりにまた手塚の手を引いてやった。









結局、店を出て、いつもの手塚に戻ってからの帰り道で説教を小一時間くらった。


















ちいさな声で。
眼鏡屋デート。
召しませ召しませの続きくさく。あの後の眼鏡屋にて。

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