The day which has grown



















「部長」

呼ばれて手塚が隣を振り向けば、広げていた本を片手に収めて、ベッドの縁に預けていた背をもぞりもぞりと当て擦るリョーマの姿があった。

「背中、なんか痒いんだけど」

顔を顰め、上背を間断なく小さく揺するリョーマに手塚は果なと首を傾げた。
痒いにしても、唐突過ぎるだろう、と。

つい先程まで、実に大人しく、それはもう珍しいくらいに大人しく、リョーマの部屋内で二人きりでこちらに手を出すこともせず、手塚が与えた本に没頭していたというのに。リョーマが手にしたままの読みかけの本は後数ページで終幕だというのに。因にそのリョーマの隣で読んでいた手塚の手の中の上製本は佳境に足を踏み込み始めた、実に『いいところ』だった。

「…かゆ………」

もぞり、とまたリョーマはベッドの縁に背を擦り付けた。身体は猫宛らにしなやかで、柔軟もよく出来る体なのだから、手を背に回して掻けば良いのに。リョーマの様を見遣りつつ手塚はそんな事を胡乱気に思う。

その間も、かゆいかゆいと繰り返しながらリョーマは上背をくねらせた。
小さい子はどうしても我慢が利かない。痒いからと掻けば、掻いた分患部の熱は上がってしまい、更なる痒みを引き起こしてしまうに違いない。悪循環なのだ。

手塚は本に燻んだ緋色の紐栞を挟み込んで、床へと手放し、小さく溜息を吐き出した。

「また汗疹か?」

唐突に痒がり出したのだからその線は希薄だったけれど。
手塚はリョーマの背がこちらに向かうように、尚も布団の縁で背を掻き続けていた体をくるりと回して服の裾に手をかけた。

「見せてみろ」

リョーマが有無を言う前に、背の部分をぺろりと捲り上げれば、くっきりと浮き出た肩甲骨の辺りに真っ赤な掻き痕が大きく広がっていた。見事に悪循環の種に火を点けたらしい。

「…掻き過ぎだな」
「だって…も、…耐えらんないくらいにかゆいんだもん」
「掻くから余計痒くなるんだ。耐えろ」
「ムーリー………!」

わきわきと蠢くリョーマの手が欲求を満たそうと自身の背へと回ってくる。先程まで辛うじて握られていた件の本はリョーマの正面で開いたままで無様に平伏していた。
本が痛むな、とその情景をやってくるリョーマの手を空いた右手で絡め取りつつ、眼前の肩越しに手塚は見た。

「掻くな」
「そうは言ってもー……っ」

かゆいもんはかゆいんだもん、とまるで子供の様な事をリョーマは子供の様な口調で口にする。手塚もそんなリョーマをまるで子供みたいだと、まだ子供の年齢のリョーマに思った。
右手一本で押さえつけられたことに抵抗するように、手塚が掴んだ両の手首の先でリョーマの五指ふたつ、計十本の指は曲がったり伸ばしたりを繰り返す。

「…掻くんじゃない」

藻掻くリョーマへ更に念を押す様に手塚の低い声。誰だって、聞き分けの良い子供の方が扱いやすくて良い。それが好みか否かは別問題としても。
駄目押しに手塚から告げられて、リョーマの手の動きは一度止まる。代わりに頬がぷうと膨れらみを持ったけれど。

一時的だろうな、とリョーマの静けさを推測しつつ、手塚は左手で捲り上げたリョーマの背を繁々と改めて眺めた。
面積としてはまだ小さいのだけれど、壮とした片鱗が其所此処に滲んでいる。こうして手塚も間近に見るのは初めてだ。そこへと爪を立てることはほぼ日常だけれど。
不意に過った熱帯夜の喚起に、俄に手塚の目尻には判別し辛い程度の朱みが差した。


いやいやいや、そうではなくて。


自戒した。

「特にこれといった発疹や腫物は――…」

浮き彫りになっている椎骨が走る未だ幼い背の上には眼に付く様なものは特に無い。それが確実なことは触れさせた手塚の手の触覚とレンズ向こうで背を眺める視覚が証言してくれるだろう。

しかし、

漏らした言葉に「無い」と手塚が続けるより早く、

ぐ、とリョーマの背の皮膚が張った。










「………――っ」


それは、
正に、一瞬、だとか、刹那、だとか、寸秒。音よりも光よりも、万物では信じられないスピード。
そんなクロノグラフでもきっと感知できないだろう素早さで、異常は起きた。

そして、手塚は己の眼を疑うことになる。



どこか荘厳そうな音をさせて、『それ』は、



「……えち、ぜん…」
「部長?」

酷く狼狽した声で名前を呼ばれて、リョーマは振り返り、そしてまた、
手塚と同じ様に我が眼を疑った。



―――『それ』は、



「越前…背……から」
「……うん」

戸惑う手塚に倣う様にリョーマも躊躇いを隠しきれない声音。




『それ』は、リョーマの背で二度三度羽ばたいてみるような仕草をしてみせた。否、羽ばたいて『みるような仕草』ではない。
その動きは比喩でもなんでもない。














「背、から、羽が………、越前」










手塚が両腕を水平に伸ばすよりも、更に鴻大な白い羽が、リョーマの背からいきいきと生えていた。





正面から後部から、四つの眼に晒されて、さも初めましての挨拶でもするかの様に、リョーマの背から生えた翼はばさりと音を立てて一度だけはためいた。























To be continued。
othersへ戻る
indexへ