Certification of the thing which is truth
頬を掠めて伸びきった翼を、手塚は呆気に取られてただ眺めた。目の前のリョーマの背中から真っ直ぐに伸びた白い翼。
翼の所有者に突如としてなったリョーマ自身もまた、背後に広がる光景に言葉を失った。
「……取り敢えず…、」
何とか声を絞り出し、手塚はまだ手にしたままであったリョーマの服の裾を手放した。本来ならばそのまますとんと落ちる筈の布は、肩甲骨から伸びる件の異物の上で止まった。
ばさり、と羽ばたかせるリョーマは実に変な格好に処されてしまう。背中は下半分がむき出しで、前面もそれに伴って腹の上あたりにTシャツの裾がきてしまっている。
覗く臍から下腹までの筋肉の筋。その途中で後ろに攣られて半端な位置で走るTシャツの裾の水平線。それをリョーマは見下ろしてから、困った様に後頭部をひとつ掻き、勢い良くシャツを脱ぎ去った。
脱ぎ去ったそれは部屋の隅に放り投げて。
「……服が途中で落ちないってことは、ホンモノなの?これ」
「……幻影ではなさそうだな」
「そうみたいだね…」
奥行きへと広がるふたつの羽翼に丁度挟まれる格好で、手塚は溜息を零し、そんな手塚の前で背中をまだ向けたまま、リョーマも肩を竦めてみせる。
自然と沈黙が落ち、それが部屋に充満した頃合いで、再び重い口調で手塚が口を開いた。
「……どう、なんだ?」
「どうって?」
「羽が生えた感触というのは…」
「生え…てんだよね…ああ、うん……。なんか、あれだよ……手がもう2本、生えた、みたいな、感じ?」
「…そうか」
また、沈黙。
どうも、いつも以上に会話が続かなかった。
アクシデントというには、あまりにも非日常的な出来事過ぎて、混乱や焦燥などは超越してしまっていた。
リョーマはぼんやりと床に視線を落とし、手塚は目の前から緩く上へと伸びる翼をリョーマと同じようにぼんやりと虚けに眺めた。
「…そういえば、痒みはもう無いのか?」
「え?ああ…うん、これ生えてから無くなった」
「…そうか」
「…うん」
沈黙。お互い、先程からのこの空気が非常に気持ちが悪い。妙過ぎる間というか。
もっと、取り乱した方がいいのだろうか、とリョーマは不意に考える。そうすれば、まだ幾らか間が持つだろうか。と、言うか、世間一般ではこういった非常事態の際には慌てふためくものなのではないだろうか、とも。
巷で羽が生えた、という非常事態はどのチャンネルのニュースでも耳にした事は無いけれど。
どうしようかな………。
リョーマがそんな風に、自分の身の置き方をうっそりと脳内で巡らせていれば、
唐突に力任せに羽を掴まれた。髪を強く引っ張られるような、そんな痛みがリョーマに走り、
「った!」
思わず、声が漏れた。すぐに背後で短く謝る声と、痛みの退く感覚。手を離してくれたらしい。
リョーマは不審そうに後ろの手塚を振り返った。その視線の先では、手塚は考えるように口許に手をやっていて、振り返ってきたリョーマと目が合うと、
「…神経は通っているんだな」
どこか納得したような顔でそう言った。
「思い通りに動くのか?」
「え…?ええとね…」
至極真面目な顔で問われて、リョーマは試してみる。と、言っても、羽を動かすだなんて、意識的にやったことは勿論無い。
生えたての時に何度か羽ばたいてみせたのだって、リョーマは何も意識はしていない。無意識に、それこそ、握り拳を作る程度の自然さでやっただけだ。握り拳を作ることに、健常者ならば力のベクトルだとか指の曲げさせ方だとかを意識することはないだろう。それと全く同じ感覚で、ただ行われただけだった。
けれど、手塚に改めて尋ねられて、リョーマは意識的に羽を動かしてみせた。ばさり、ばさり、と室内の空気を凪ぐ羽音がした。
「動かせる、みたいだけど…?」
「そうか…」
またその言葉で手塚は会話を切ってしまう。
その態度に、焦れる想いを抱いてリョーマはやっと手塚に正面を向けた。羽もリョーマの動きと連動してぐるりと旋回する。
「ねえ、どうしたらいいの」
「どう…とは?」
「ってゆうか、これ、なに」
これ、とリョーマは自分の背を指す。
端的にものを逆に尋ねられて、リョーマの向こうを見遣り乍ら、手塚は口を開く。
「羽…だな」
「わかってるよ」
「白いな」
「それもわかってる。そうじゃなくてさ、これ、なに」
「だから…」
羽だろう?と手塚は同じ事を問うてくるリョーマに対して小首を傾げた。リョーマは、更に焦れる。
そんな初級英語みたいな問答をしてはいないのだ。
ああ、もう、と遣りきれない想いで充ち満ちた溜息を零せば、手塚に顔を顰められた。
柳眉が奇妙に歪む。
「尋ねたいのはこちらの方なんだがな。それは、なんだ」
「だから……」
羽でしょう、とつい返してしまって、そうじゃないんだよ、とリョーマは自己嫌悪へ。
翼を背中に背負ったまま、思わず頭を抱える。
「取り敢えず…そうだな、事態を整理してみようか」
落ち着き払った態度は、部長やら生徒会長やら、常に重責を追う身である癖なのだろうか。
視線を落としがちに、これまでの成り行きを回顧する手塚の顔を繁々と眺めつつ、リョーマはそんな事を思うが、ここまで冷静過ぎることは傍目から見れば、実は非常に奇妙なことで。
冷静過ぎる手塚のその態度は、極度に混乱している症状だった。
手塚は酷く、取り乱していたのだった。混乱のバロメーターの針がただ振り切れ過ぎていたに過ぎない。
「…お前が、突然背中が痒いと言い出したのだったな…」
訥々と、手塚が言葉を始める。リョーマはひとつ頷いた。
「かゆくて、かいて、部長に止められて」
「お前の背中が攣ったのを見て、」
物凄い速度で、
「羽が飛び出したんだな…」
「そう、だねえ…」
そして羽の出現と共に去ったリョーマの背中の痒み。
「背中の痒さはこれのせいか…」
「いや、まあ、そんな改めなくてもそうだろうね」
「身長が伸びる時に骨や関節が痛むのと同じ原理、ということか?」
「そう、なのかな…?じゃあ、これも、成長のひとつなの?」
怖ず怖ずと、リョーマがそう告げれば、手塚の唇は真一文字に結ばみ、視線がゆっくりと上昇した。また、羽を見遣っていた。
「…俺は生えなかったぞ?」
「だろうね…」
保健体育の授業でもそんな事象は聞いたことがない。
リョーマや手塚の年代で起こる男子の二次性徴は、精々、声変わりや筋骨の発達、それに伴う背丈の伸長に、体毛の濃化など。翼が生えるどころか、翼のツの字すら、黒板に記されたこともない。
第一、これが人間として必ず通る道ならば、何もこんなに不思議に思うことなどないのだ。
手塚もリョーマも、目にしたことも耳にしたこともない異例な出来事だからこそ、先程から結論の出ないWhat is this?の会話が繰り広げられた。
「これは…実生活に影響はあるんだろうかな…」
「…ありまくりじゃないスか、テヅカセンパイ……」
この天然大王め、という罵詈は内心でだけ。
羽を生やした人間が、どうやったらのうのうと普遍的な生活を送れるだろうか。
他の人間とは見目があまりに違い過ぎる。今、地上で羽を生やした人間はリョーマだけだろうし。
けれど、そうか?と手塚は首を小さく傾げてみせた。
「ちょっと外見が人と違うだけだろう」
羽人類を『ちょっと』とのたまえる人間は、恐らく目の前の恋人だけだろう。
漸く、リョーマも焦りが出てきた。それを齎してくれた手塚に感謝すべきかどうかは置いておいて。
「そうだな……。…まず、服が着られないでしょ?透けてくれてるならまだしもそうじゃないし。上半身裸で外歩くのって変じゃない?」
背中のそれは確固として質量と体積を持ち、現実のものとしてリョーマの背から生え揃っている。
サイズもリョーマが両手を広げるよりも優に巨大で、服の中に納めるにしても、とてもではないが、リョーマの持っている服のサイズでは長さが足りない。
リョーマの述べた見解に、ああ、そうだな、と何とも味気ない相槌が手塚から返る。
「夏はいいが、冬となると寒くてかなわんな…素肌では」
風邪をひく。と、実にのうのうと手塚は言葉を続けた。
そういう、意味ではなかったのだけれど。
あまり真意を理解してくれていそうにない。リョーマはこっそりと溜息を漏らした。
「それに…テニス…できんの?これ」
「できるんじゃないか?」
これならば反応を示してくれるだろうか、と、どこか祈るような気持ちで問題提起してみるも、手塚は顔色も変えず、さらりと返事。
「でき、るんスかね…」
「やってみないことには解らんがな。なんなら、今から裏のコートででも軽くやってみるか?」
わざわざオートコートまで足を運ばないでいいことはこの時は幸いだったのだろうか。もしそうならば、家の裏、神社の境内にコートを据えた父親に礼のひとつでも言わなくてはならないだろう。
「百聞は一見に如かず、と言うしな。やってみるか」
そうして、手塚は腰を上げて、部屋の出入り口へと足を進めた。
「…ちょっ!待ってってば!」
軽快な程に颯々と足を進めていってしまう、手塚の後を追おうとリョーマは立ち上がるが、長さのある翼がその瞬間にベッドの縁に強打された。声にならない声が、リョーマの口から飛び出る。
例えをもってするならば、そう、日常の合間に起こったりする、足の小指を柱にぶつけるような、じわりと、けれど鋭敏に痛覚は反応した。
「お前、周囲に気をつけろ」
幅を取るんだからな、とリョーマがあげた声に足を止めた手塚がドアの手前で振り返り乍ら淡々と告げた。
前途多難だった。
勝手に生えてきた翼と、目の前の恋人が。
焦燥をやっと実感したリョーマとは裏腹に、手塚の中の混乱は完結されていたのだった。
To be continued。
現実を、あるがままに受け止め過ぎです手塚さん。
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