When fear has come
















暫しの沈黙の後、手塚がゆっくりと腰を上げたので、リョーマも立ち上がる。背中の羽のせいで立ち上がった瞬間に少しだけバランスが崩れる。
そういった、これまでの日常には無い感覚が訪れる度に、ああ、とリョーマは気が付く。背中の異物以外は、リョーマには何も変化は無いのだから、どうしても存在をふと忘れてしまう。

「…そのうち、慣れるといいな」
「いや、良くない。良くないから。多分」

立ち上がる動作の中で、両脚を踏み締めたリョーマに手を貸してやりながら、虚ろ気に手塚がそう言うものだから、リョーマは真面目な顔で首を横に振った。
完全に、手塚の中で、リョーマの翼は他人事染みてきているらしい事実に、リョーマは少しばかり悲嘆に暮れたくなった。

「アンタもさあ、手伝ってよ。これ消す方法考えるの」
「消したいのか?」

さも意外だとばかりの手塚の口調に、リョーマの中で嫌気は更に増した。
消したいに決まっている。こんな人類からかけ離れた姿のまま、一生生活できる訳がない。

「ほら、消さないとテニスもまともにできないし」
「それも慣れるまでの問題だろう」

なに、お前ならすぐに慣れるさ。
褒められているのだか、何を思われているのか、あまりリョーマには手塚の言葉の意味がわからない。と、言うよりも、わかりたくはない。

テニスができるできないの問題は、飽く迄、それなら手塚が食い付いてくるだろうと思ったというだけの選別なだけだというのに。

そうじゃなくてさあ、とリョーマは思わず顔を顰めた。恋人の天然ぶりがこんな時はちょっと厄介だ。
話が、噛み合わない。

「これじゃオレ、外にも行けないし。服も着られないし。いや、行こうと思えば行けるんだろうけど、周りの目引くじゃない?ああ、別に、他人の目なんて今更気にならないんだけど、通り様にくすくす笑われるのとかすごいカチーンてくるしさ。それに、ほら、こういうのってどっかの科学者とかが見つけたら大騒ぎになって原因究明の為に解剖とかされるかもしれないし?」

ぺらぺらと滅多に目にはできない、リョーマの見事な饒舌ぶりを一通り聞いてから、たっぷりと間を置き、特に表情を変えることもせず至って平坦に言い放つ。

「…死なれるのは、困るな」
「でしょ?アンタだって、オレを亡くして、涙で一生を送るなんて嫌でしょ?」
「泣くかどうかはまた別問題として、お前がいないと今度は俺が暇で死にそうだ」
「…泣けよ」

嬉しいのだか嬉しくないのだか瞭然としない。『一応』不可欠な存在なのだと、ポジティブにここは考えるとして。

「取り敢えず、考えるのは明日にするか。今日はもう帰る」
「帰る、って……まだ夕方にもなってないのに?こんなオレを残してさっさと帰る気なの?」

淡白な人だ、淡白な人だと思ってはいたけれど、ここまで淡白な、否、薄情な人だとは思ってもみなかった。
思わず、縋る様にリョーマは手塚のTシャツの裾を握り締めた。それによって、返そうとしていた踵を手塚も止める。

「昨日のうちに、夕方から家族と出掛けるから、今日は昼過ぎまでだとと言っておいただろう?」
「ああ、そういえばそんなこと言ってたような………って、今は非常事態でしょ!?それでも行くの?」
「非常事態ってお前な…」

握りしめられていた裾の手をやんわりと解きながら、手塚は溜息を漏らした。
億劫そうに吐き出されたそれが、何故だかリョーマの心臓の琴線を揺らした。

「ついさっきまでけろりとしてたじゃないか」

それを今更になって。再度の溜息に被せて手塚はそう告げる。

手塚が溜息を漏らすことは、彼の癖みたいなもので、よく隣でそれが零れ落ちる瞬間を目にしている。
けれど、この時ばかりは、非道く切ない気持ちと、このまま放っていかれる愁思とで、きゅう、と胸が痛いくらいに締め付けられた。痕でも残りそうな程にきつく。

「そう、だけど…」

折角、手塚が解いたリョーマの手は力無く彷徨って、また手塚の服の裾を掴んだ。その指先は先刻よりもずっと強く。指先が白くなる程に。

「越前?」
「なんか、すごい急に不安になっちゃって…」

自嘲気味に、リョーマの口角は緩慢に持ち上がる。

「不安?」
「…たとえば、」

たとえばだけど、と同じ言葉を繰り返した。

「明日になって、オレが今以上に人間じゃない姿になってたら、どうする?」
「お前は、お前だろう?」
「そう…なのかもしれないけど。……………………。今日は、アンタが居たから、オレ、大丈夫だったんだと思う」
「…俺は何もしていない」

それどころか、目に見えた弊害は無さそうだから、と置いて帰ろうとすらしていたのに。

俯きがちに言葉を発するリョーマを見ているうちに、ちくりと手塚の胸も痛んだ。
そんな折に、言葉をふと止めて、リョーマは手塚を振仰いだ。
西陽にはまだ遠い太陽が真上から離れた位置で煌めくのがバックグラウンドに網膜を焼く。

「あの時、傍に居てくれたじゃん」

じわりと初夏の太陽が空気を暖める。
それらに辺りを囲われながら、手塚は再びリョーマの手を服の裾からゆっくりと剥がした。また彷徨いそうになるそれを、今度は大事そうに握ってやりながら、小さく笑顔を浮かべた。
どこか観念したような、その顔。

「仕様がない奴だな…」

















To be continued。
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