And anew a parson.
















陽が随分と西に位置を変えた頃、越前家の呼び鈴が鳴らされた。
広さはたっぷりとある邸宅の壁にぶつかりぶつかり、幾度もエコーを響かせ、間もなくして霞んでいくようにして音が消えた後、その家にはひとつしかない階段がばたばたと揺らされた。
その轟音は、ドアの前に立っていた訪問客の耳にも届き、彼は、元気なことだな、と独り言を呟いた。

ドアが解錠される音が向こう側で響いて、中から彼を呼び出した張本人の顔が飛び出した。

「乾、遅いぞ」
「だからちゃんと遅くなるけどいいの?って訊いたでしょ?俺なりに今日は予定があったんだから」

来ただけでも褒めて欲しいね、と来客の乾はドアの敷居を跨いだ。乾が完全に玄関へと上がったところで、手塚はまた扉を閉めた。

「それで、今日は何用………」
「ちーす、乾先輩」

靴を脱ぐべく、視線を足下に落とし、有意義なプランが立てられたいた休日に急に呼び出された訳を問おうと開いた乾の言葉は、正面から不意に投げられた声で遮られた。
乾は、反射的に視線を上げて、



そして、ぷうっと吹き出した。


「…乾、越前に失礼だ」
「ご、ごめん手塚…で、でも…」

爪先はまだ靴の中に仕舞い込んだままの中途半端な格好のまま、乾はくっくっと堪えきれない笑いを吐き出した。
そんな乾の態度は、予想のひとつだったから、リョーマはこれといって拗ねた様子は見せない。ただ、乾の背後に立つ手塚だけが憮然とした表情をしていた。

乾は遂には腹を抱えだして、ひいひいと苦しそうに息を吸い込み乍ら笑い続けた。
ここまで爆笑の渦に飲まれる乾の姿は手塚もリョーマも初見だ。

一頻り笑い終わった後、漸く乾は靴を脱ぎさって後輩の家に上がった。

「越前、なんて格好をしてるんだい」

言葉の端に未だ完全には拭いきれないらしい可笑しさからくる笑いを滲ませつつ、リョーマの真正面に立った乾は、リョーマの背の羽をくい、と引っ張った。
何のコスプレだい?とかなんとか言いつつ。

けれど、それは偽物でも、幻覚でもなく。

「…いたっ」

現実以外の何者でも無く、引っ張られた側のリョーマは思わず顔を顰めた。
そのリョーマの反応に、一瞬だけ、乾の体は凍り付く。

「越前…手塚も、わざわざドッキリの為に俺を呼んだのか?」

二人揃って、タチの悪い、とどこか引き攣った表情で乾は続ける。その手はまだリョーマの翼を握ったまま。

乾のそのリアクションは、今度は手塚側の範疇の内で。
手塚は、乾と、それからリョーマの傍らへと扉前から足を進めた。そして、羽の生え際を指差してみせる。

「よく見ろ。生えて、いるんだ」

指先で示された場所には、皮膚の奥底へと透けていく淡い淡い雪の色をした翼の根元。
際の部分は、肌の色と複雑に混ざり合ったグラデーションで彩られていて、この時まで、乾はそんな色を現実世界で目にした事は無かった。

「生えて、るんスよ」

追い打ちの様なリョーマの発言に、瞬間、乾は握り込んでいた手を離した。

「動きは自由自在ッス」

ぱたぱた、と軽やかな音をさせて、リョーマは背中の異物を羽ばたかせてみせる。一歩、乾は後ずさった。

「…理屈で説明してくれ」
「それが解らんから、お前を呼んだんだろうが」
「そ、そうだったのか…」

防御でもするかの様に、リョーマから先程よりは距離を置いて乾は身構えた。

「こういう理由でもなきゃ、休みの日に乾先輩なんて呼びませんよ」
「酷いな越前。手塚ばかりとではなく俺とも偶には遊んでくれ」
「やだね」
「いいよ、一人でも遊べるから」
「そッスか…」

それはそれで空しいような気もしないでもない。それでも、のびのびと出来る休日に乾風情と遊んでやる様な余分な時間など少しもないけれど。
生憎と、リョーマの休みは睡眠と手塚の為に存在している。

「で。見た限り、何か解らんか?」

リョーマと乾の遣り取りを、傍でただ見守っていた手塚が両者の間に割って入った。
どこか睨む様な厳しい眼で見据えられるけれど、乾は大して意には介せず、解る訳無いだろう、と即答で切り返した。

「…役立たず」

異口同音で罵詈を唱えられて、ム、と乾も流石に眉を顰めた。

余暇のタイムスケジュールを中止してまで足を運んできてやったのに、何という言様か。他ならぬ、部活仲間の頼みだからこそと思って、来た事も無い越前邸に道中、小径に幾度も迷いつつやってきたというのに。

「一見しただけでそんな不可思議なものの実態で解るのは、羽ってことだけだ。しかも尋常じゃないサイズのね。それ以外に何か閃けるものならば、俺は今頃アメリカで博士号でも取得しているさ」
「まあ、それもそうか…」
「所詮は乾先輩だった、ってコトっすよね…」

今度は揃って、肩を落とされた。

「お前ならもしや、と思ったが……」
「ちょ、ちょっと、手塚、何、何なの、その、はーあっていう世界の終わりみたいな顔は」
「いや…いい。何も勘繰るな。それがお前の為だ」
「…ちょっ!聞き捨てならないな、その発言」
「部長、ここはストレートに期待外れだった、って言ってあげた方がいいかもよ?」
「いや、知らぬが仏と言うだろう?」
「…君達、ホントはただ俺をからかう為だけに呼んだんじゃないのか?」

その背中のものも、精巧なハリボテじゃないのか?と眉をきりきりと吊上げて乾はリョーマの羽をきつく指差す。

そんな乾に、二人は呆れた嘆息を漏らすばかり。

「だから、そんな暇人じゃないってーの……」
「同感だな」
「ああ、もう、すごい腹が立ってきたよ。前代未聞に苛々してきたね」

堪忍袋の緒は切れる為に有るんだ!と豪語したのはどこの世界の住人だったか。正しく、乾も今、そんな境地に立っていた。
頬を引き攣らせ始めた乾にも、目の前の二人はけろりとしたもので。そんな態度が乾の苛立ちの熾烈さを加速させた。

乾も、平素、感情の起伏はそう激しい方ではない。そんな彼がこんなに怒るというのは、つまり、

矢張り、乾貞治氏も混乱していたのだろう。

「決めた」

力強く床を踏み締めて、それまで置いていたリョーマとの若干の距離を、乾は詰めた。
そして、リョーマの頭の上まで伸びた翼の一つ、翼を形勢する羽根をひとつ摘み、力任せに引き抜いた。
途端に、リョーマの口から盛大な悲鳴が弾け飛ぶが、乾はそれをどこか勝ち誇った顔で見下ろした。

「何すんのさ!」
「これは頂いていく!」

ふんぞり返る乾は、宛らヒーローものの悪役染みていた。180センチを越える長躯は、反り返らせるには適しているらしく、リョーマは険しく睨むだけで、他は押し黙った。

「今すぐ、にこれの正体は教示できないが、明日には必ず教えてあげよう。俺の名に賭けて!」

どこまでも、悪役気取りではあるのか、さらば!と声高に叫びを残して、乾はドアも開け放ったままで立ち去った。
残されるのは、開いたままのドアを胡乱気に見詰めるリョーマと手塚。そして、突然の大声に何事かとリビングから倫子が顔を覗かせていた。

「リョーマ、お友達はもう帰ったの?」
「うん」
「随分、賑やかな子なのねえ。同い年?」
「んーん。ふたつ上」
「ふうん。手塚君と同い年とは思えなかったわねえ。手塚君が大人びてるだけかしら。
  あ、晩御飯、もうすぐ出来るから手を洗ってらっしゃい。手塚君も」

ぱたん、とドアを閉めに行ってから、リョーマは、はぁい、と伸びやかに返事をした。
廊下の先の向こう側からは、ふわりと香る夕餉の匂い。

















To be continued。
崩壊乾
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