Temporary truce
リョーマの背から翼が生えて、初めての月が夜空で燦然と輝く頃、異変の当事者は身体を泡まみれにしたまま、首を捻った。
「…だめだ、届かない」
上半身を最大限に捩った体勢。その腕は背から垂直に伸び揃った翼の頂点には届かない地点でふるふると小さく震え乍ら、その先へと伸びようと奮闘していた。
もう一度、伸ばした腕に力を込めるが、上背を伸ばせば、その分、翼が折れ曲がる頂点も上へと移動するものだから、どうしても届かない。
「でかすぎるんだよ。…んにゃろう。…………………かあさーん」
浴場の外へと大声を投げれば、ぱたぱたとスリッパが駆けてくる音がする。なぁに?と風呂場のすぐ傍で母親の声がしたのを聞いて、リョーマはドアを少し開けて、オーダーをひとつ。
とん、とん、と階段を上って来る足音が聞こえて、手塚は本を読む手を止めて顔を上げた。
上って来た足音は手塚が居るリョーマの部屋の前でぴたりと停止し、二度程、ドアを小突いた。それからゆっくりと開き、リョーマの母親の顔が覗く。
「手塚君、お寛ぎのところごめんなさいね。ちょっと、来てもらえるかしら?」
「…は?はあ………」
申し訳なさそうな顔をして告げる倫子に、思わず頓狂な声をあげつつも手塚が腰を上げたのとほぼ同時、今度は倫子からストップがかかる。
「着替えも一緒に持ってきてもらえる?」
ドア向こうから、倫子は部屋の隅に置かれた手塚の着替えが入った紙袋を指差す。
急な宿泊に備えて、外出の道なりにわざわざ手塚の母親である彩菜が持ってきてくれたものだったことをここで言及しておこう。
倫子のその発言と動作に手塚は首を傾げる。
「いえ、しかし、今、風呂は越前が……」
入っている筈である。
リョーマが、あがったよ、と言ってくるならば、それでは一風呂、という気分にもなるが、まだ入浴中の者がいるのに着替えを持って来い、というのは解せない。
怪訝な顔をするそんな手塚に、倫子は、ごめんなさいね、と言い置いてから、
「羽のところが洗えないから、手塚君に手伝って欲しいんですって」
と、苦笑したまま続けた。
その言葉に、手塚の額へと、豆鉄砲が一発飛んだ。
「何もお客様にそんなことしてもらわなくっても、とは言ったんだけどね」
上って来た時同様、ゆったりとした調子で階段を下りつつ、倫子は口を開いた。その後を、同じ調子で手塚が続く。手には、着替えの詰まった紙袋をぶら下げながら。
一段、階段を下りる度にそれはゆらりと揺れる。
「ほら、今の年頃って微妙な年頃でしょ?『母さんに洗ってもらうのはヤだ』って言うし、それなら南次郎…あ、父親の名前なんだけどね、父親を呼ぼうとしたら『アイツだけは死んでもヤだ!』ってわがまま言うのよ。菜々子ちゃんに洗わせる訳にもいかないし」
たってのお願いなのよ、ごめんなさいね、とまた詫びを繰り返す倫子に、力無くも、いいえと返すけれど、手塚の胸中は何とも複雑だ。
風呂に入る直前まで、ずっと上半身裸のままでいた少年を『年頃』だと言ってやるには、あまりに上品すぎるだろう。
そうこうしているうちに、少年の母親と少年の先輩兼恋人は1階へと到着し、そのままの足で浴室へと向かった。
キィ、と脱衣所のドアが開くのと同時。
「ぶちょー、ちょっと手伝って。届かないんだよ」
わんわんと浴室内に谺した声が湯で煙る扉の向こうから響いてきた。
それに対してひとつ、苦笑してから、それじゃあよろしくね、と倫子はその場から去った。
ああ、もう、これだから子供は我侭で嫌なんだ、と内心で悪態を吐きつつも手塚はシャツを脱ぎ去った。
浴室内からは、はやくはやく、と急かす気随気儘な子供の声。
少ししてから手塚が浴室の扉を開けば、湯で濡れたタイルの上にポリプロピレン製の風呂椅子に鎮座する泡を盛大に纏ったリョーマの姿。
こちらを少しだけ振り返った体勢で、リョーマは徐に背中、厳密に言えば、そこから生えた羽を指差した。
既に、シャワーででも濡らしたのだろう。それはしっとりと濡れそぼっていて、部屋から意気揚々と出て行った時の様な、綿菓子やマシュマロを連想させるようなふわりとした軽さは見受けられなかった。
「ここ、羽のさ、曲がってるとこあるでしょ?そこが届かないの」
だから代わりに洗って、と飄々と言ってくるリョーマのほぼ真後ろに立てば、知らず、手塚の口から溜息が零れた。
「洗えないなら洗えないで我慢すればいいだろう」
「だって、昼間に汗かいてすっごい気持ち悪いんだもん。臭いそうだし」
気持ち悪い。そんな感覚まであるのか、と手塚は裾だけ泡立てられた白い羽を見下ろした。
羽が生えてきた経験など一切無い手塚には、到底知り得ぬ感覚だろう。
「…しかし、よくこれを洗う気になったな。と、言うか、これは石鹸で洗うものなのか?シャンプーで洗うものなのか?」
「だって、体の一部だし。毛だからシャンプーでいいんじゃないの?さっきからそれで洗ってるんだけど」
「毛…」
にべもない発言に、少々、黄昏れてしまう。
荘厳な素振りはあるのに、それでは少し釣り合いが取れない気がしてしまう。
「羽毛、って言うじゃない。毛でしょ。毛。なんか違ってる?」
「…明日、鳥用のシャンプーでも買ってくるか?」
「そんなんあんの?」
「さあな…物が溢れ返っている巷ならあるんじゃないか」
愚痴めいた言葉を零しつつ、手塚はディスペンサーの頭を押して出て来た洗髪剤をリョーマが先程指差した部分に擦り付けた。
それをしてから、ふと、手塚は手を止める。
「…これは、どう洗えばいいんだ?」
「髪と一緒でいいんじゃないの?こう、手でごしごしーって」
「傷まないか?」
羽毛布団なんかはそういえばクリーニング屋に出す。中身の材質は目の前のこれときっと同じなのだろうし、素人が手で捏ね繰り回して洗ってしまって良いものか、手塚は全裸のままで首を捻った。
奇妙な、光景。
「…アンタって、変なとここだわるよね」
「そうか?しかし、勿体無いだろう、傷んでしまうのは」
折角、綺麗な淡雪色で生えてきたというのに。
自分が下手に洗ってしまうことで、毛羽だってしまうのは惜しい。
そうしてまた小首を傾げる手塚に、リョーマは小さい笑いをひとつ噛殺した。
「いいよ。どうせ、ちょっとはオレ洗っちゃったし」
「そうは言うが…―――」
「アンタにぐちゃぐちゃにされるなら本望」
正面を向けたままだった顔を振仰がせて、に、と笑ってみせれば、手塚と目が合った。その名尻は暖色系の灯りのせいで瞭然とはしていないが、確かにそこ以外の皮膚以外の色よりは濃くなっていた。
「お前の、そういう顔でそういう発言は鄙俗しいからやめろ」
「へえ?どういう顔でどういう発言?ぐちゃぐちゃに、してよ、ねえ」
「…こっちを向くな」
更にシニックに頬を緩めてみせるリョーマの頭を後ろから鷲掴んで、強引に正面を向かせる。
それに対して、実に愉しそうにくつくつと喉で笑うのが更にむかついた。
だから、子供は嫌なんだ、と手塚は熱を持つ頬を自覚しながらひっそりと憎まれ口を叩いた。
「ちょっ、くすぐっ、たい…っ。触り方、やらしいー」
「こら、動くな。そして、言うに事欠いて鄙俗しいとはなんだ」
結局、洗髪と同法で良いのだろう、という結論で、手塚が隙間無く生えるリョーマの翼に指を差し込めば、途端にリョーマが身をくねらせた。
きゃあきゃあ、と笑い声をたてては、右へ左へと逃げる。
「だって……っ、あー、もー、すっごいこしょこしょした感じ……で…っ!……だめだ、こそばいこそばい…!!」
「お前が洗えと言ったんだろう」
「こそばゆいー」
逃げるな、と項を片手で押さえこんで、また手を動かせば、泡に塗れた肩と両翼がふるふると小刻みに震えるけれど、構っていられない。
指の動きを早くして、手塚は残った片手を懸命に羽毛の中で蠢かせた。動く度に、リョーマの口からは笑い声が吐き出されて来る。
ああ、もう、だから、子供は…!と陰口を胸の奥で唱えるのは本日三度目。零したい溜息をぐっと堪えて、手塚は運指を続けた。
To be continued。
のんきなもんです。
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