Front abbreviation. At on road.
















「越前のやつ、大丈夫ッスかねえ…」

学校のテニスコートへの移動の道すがら、桃城がぽつりと漏らした。すぐ前を乾と並び乍ら歩いていた不二は、心配そうな顔色を浮かべてそう呟いた桃城を笑顔で振り返った。

「大丈夫だと思うよ。あの子は、並の精神力じゃないからね」
「そうッスけど…」
「切り替えてたけど、かなり落ち込んでるっぽかったもんねー、オチビ」
「まあ、自分の身体が突然腐ってきたとなれば、ショックを受けて当然だろう。俺は寧ろ、越前にもそういう部分があったんだと、ちょっと安心したけれどね」

振り返った不二に倣って、乾も足を進めつつ、そう桃城に言う。桃城の隣を歩く菊丸が、乾の発言に、本人が聞いたら怒っちゃうぞ、と、一応の抗議の声を上げた。それでも、顔には笑みが浮かんでいるあたり、本音の部分では、ほぼ乾と同意見なのだろうけれど。

「それなんすけどね、乾先輩」
「ん?なんだい、桃」
「身体が腐るなんてこと、普通あるんスかね?」

振り返ったまま、足を進める乾に一歩近付きつつ、桃城がそう尋ねれば、いともあっさりと、乾はあるよ、と返した。

「壊死、という言葉があるだろう?」
「エシ…っすか?」

はて、と首を傾げる桃城に、壊れるに死ぬ、と、字面具合まで説明を添えてみるが、彼は、はあ、と曖昧に返事を寄越した。
知らないらしい。

「生体の組織や細胞が局所的に死滅することを言うんだ。普通は、火傷だとか感電なんかの物理的原因と、腐食剤や毒物なんかの化学的要因。それから、血液循環や神経性の障害なんかの病理的原因で生じるね」
「あの…乾先輩、もっとわかりやすくお願いします…」

理解不能な単語続けざまに述べられて、桃城は奇妙に顔を歪めた。その隣では菊丸も似たりよったりな顔をしていた。
そんな二人組を見乍ら、乾以外に一人、理解しているらしい不二が苦笑した。

「つまりは、細胞が死んじゃうんだよ。細胞は解るよね?身体の基本になってるやつ」
「あー、なんか、理科の時間に顕微鏡で見た!なんか、こう、綿棒で口ん中ぐりぐりしてさ、ガラスの板に乗っけて」
「そう、それだよ、英二。細胞も生きてるからね、死ぬ時が勿論ある、ってこと。それが…んー、そうだな、人間で言うと、事故に遭った、みたいな原因で死んじゃうことだよ」

にこにこと微笑んだまま、解説する不二に、菊丸はふうん、と漏らした。解ったのか解っていないのかは、表情を読み取る限りは瞭然としない。

「ま、まあ、とにかく、その壊死ってやつで、越前の羽は腐ってるんスね?」

焦った様子でそう発言する桃城も、恐らく、上辺ぐらいしか理解していないだろう。
纏めが欲しいところの彼はそう性急に述べるが、乾はずれた訳でも無いのに、眼鏡のブリッジを押し上げた。

「いや、飽く迄可能性という段階だ」
「…? どういうことッスか?」

再び、桃城は首を傾げる。理論には滅法弱い質なのだから、そこには敢えて首を突っ込まない様にした方が芳しいと思うが。

「越前の羽の構造物は先にも述べたが、砂糖だ。ショ糖と麦芽糖との混合物プラスアルファではあるが、まあ、総括的に言えば、砂糖だ。結晶の集まりだ」
「はあ…」
「砂糖、ということは、食物だ。これはわかるな?」

普段、菓子やジュースなど、形は変わっているけれど、流石に砂糖=食べ物、というくらいは桃城でもわかる。保育園児だって、それぐらいはきっとわかる。
そんな、馬鹿馬鹿しいような質問を投げかけ、桃城が頷いたのを見ると、乾は先を続けた。

「食物が腐ることと、壊死とは違う。食べ物の場合は、その中にある水分の変化で細菌や黴が生える。壊死の場合は、細胞が死んで組織を保てなくなることだ。越前の羽には神経も骨格もあったようだが、概ねは砂糖だ。今のところは、麦芽糖の影響であの形を保っているのだという結論なんだが、それであったとしても、だ」

早くも脳の処理能力が追い付かず、最早ぽかんと口を開けたままの桃城相手に奮う熱弁を、乾はそこで一度区切った。
因に、先程まで隣に居た筈の菊丸は颯々と最後尾に居る大石の元へととんずらしていた。

「砂糖は、腐らないんだ」
「く、腐らないんスか……」

辛うじて、それだけを返した桃城に、乾は深く、やや笑顔気味に首を縦に下ろした。

「で、でも、えーと、砂糖も食べ物なんですよね…?」

そこは常識以上に自然の摂理だというのに、何故かたじろぎつつ、桃城は言う。

「ああ、食べ物だ。砂糖も食べ物だ。食べ物だが…」

食べ物食べ物、と繰り返し過ぎである。

「腐らないんだ」
「ど、どうして、ッスか…?」
「まあ、腐らないと言っても、ケースバイケースなんだが、一般的には腐らない。それは、砂糖にはタンパク質がない。つまりは窒素が無いんだ。微生物に限ったことじゃないが、DNAの複製には窒素が不可欠なんだ。そして、それから砂糖そのものに水分が無い。水分がないと、腐敗の原因となる微生物の増殖は難しい。水分があれば、それに流れて微生物は増殖できるからね。流動もせず、栄養分も無く、では、微生物は繁殖はできない。つまりは、腐らないんだ。越前のあの羽の中に水分があって、そして砂糖の含有率が少ない場合は多少、傷むことはあるだろうが。傷ませないことには、水分に対して2倍の砂糖があるのが理想的なんだ。昨日、風呂に入ったと言っていたが、恐らくあれは関係ない。砂糖には水を吸い込んでも押し遣る力があるからな。固まることこそあれど、腐りはしないんだ。繰り返すが」

息も吐かせぬ早口で、最早、熱弁の域は越えた。独り舞台となり始めて居る。
その舞台の唯一の観客である桃城は、乾の言葉を耳から通してはいるが、脳の演算能力が追い付かず、結局、逆の耳からそのまま垂れ流さざるを得なかった。
不二も、乾が饒舌のピークを迎えた頃合いに河村の隣へと既に批難していて、いつの間にやら乾が桃城の隣を歩いている。

それでも、酷く胡乱気な顔で、桃城は発言する。

「え、えーと…でも、腐ってたんですよ、ね?越前の羽」
「そう、そこなんだ。俺はそこがどうしても解せない。ありえないんだよ、あれほどの砂糖の含有率を含むものが傷むどころか腐るなんて。腐るとしたら、窒素を含む不純物が混入されたとしか…ん?不純物?……ひょっとして、あの正体不明のものの中に窒素が……。ありえない話じゃないな…あれはまだそこまで深く分析していない……」

遂には独り舞台から只の独白へと変わり、そのまま観客へ声を張ることも忘れて、乾はぶつぶつと聞き取り辛い声で呟き始めた。
今が、自分も逃げるチャンスかと、桃城が後方へと足を忍ばせたその折、

「大石!今日、ちょっと練習休んでいいかい?どうしても調べたいことが……!どうせ俺はレギュラー落ちしているから構わないだろう?」
「…乾、今日はお前がコーチをやるという話だったじゃないか……」

桃城程ではないが、遠からぬ距離で乾の多言を聞いていた大石はげんなりと、そう返した。



他のメンバーが大石同様にうんざりとするなか、『彼』だけは、いやに不安そうな顔をしていた。
















To be continued。
菊にとっては化学も物理も全部『理科』です。
蘊蓄ぶる乾を書くのは資料が膨大にいるので正直嫌いです……鵜呑みにしないでくださいね…でも砂糖が腐らない(腐り難い)のは本当みたいです
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