ただいまのその時
名前を呼ばれて、リョーマは目を覚ました。
けれど、身を起こして辺りを見回したリョーマの視界に映るのは自分と脇腹に乗っかった愛猫以外には誰もいない、いつも通りの自室の風景。
あれ?とリョーマは首を傾げた。
足下が動いた感覚からか、猫である彼も目を覚まし、起き抜けにほぁらとこれまたいつも通りに奇妙に鳴いた。
確かに、名を呼ぶ声が聞こえた筈なのに。
頻りにリョーマは首を傾げた。その直後に、目覚ましがけたたましく鳴り出した。
いつもなら、耽溺している夢の世界を唐突に蹴破られるその音を、ご苦労様、と彼の頭を叩いて止める。
今日はやかましい目覚ましに苛立ちを覚えることなく起床を果たせたことを、ラッキーだな、と嬉しく思いながら、リョーマはベッドを抜け出た。
その後ろを、小さな歩幅で猫が続く。
おはよう、と声をかけて、リビングの扉を開けば、朝食を作っていた最中の母親が驚いた顔をして振り返った。けれど、すぐに柔和な笑顔を作って、おはよう、と返してくれた。
何故か、そのすぐ後に時間通りに起きられたことを褒められた。そういえば、いつも目覚ましが鳴ってからも30分は余裕で眠っていたままだったことを思い出す。
いつも中々起きて来ないリョーマに、母が朝からおかんむりになっていた気がする。今日は、それが無く、きりりと眼を吊上げる顔の代わりに、瑞々しく微笑んでくれた顔。
それは、ちょっとした幸せ。
頬にキスをひとつ貰って、父親を起こしてくるよう頼まれる。
どうやら、今日はあいつは遅いらしい。にぃ、と不敵にリョーマは口角を吊り上げ、父親が眠る部屋へと勇んで駆けていった。
久々に、あいつを蹴れる。
蹴りひとつにも、抗議の声は受け付けない。何せ、『母さんが起こして来いって言った』という立派な免罪符があるのだから。
鼻歌を軽快に吹き鳴らすリョーマが後にしたリビングでは、美味しそうな朝食の匂いがふわりと香った。
父親を爽快に蹴り飛ばし、朝から気分はうなぎ上り。
リビングに戻ってみれば、テーブルには目玉が二つのフライドエッグが皿にちょこんと乗っていた。二つ目の目玉焼きは久々に見かける。
洋食は大して好きなメニューではないけれど、黄身がふたつの目玉焼きはちょっと豪華な感じがして楽しくなる。
どうして今日に限って二つなのかと、サラダを盛る母親にトーストへと齧り付きながら尋ねれば、卵を割ったら黄身が二つ入ってたのよ、と笑顔で返事を貰った。
その貴重なフライドエッグを自分に宛ててくれたことは、ちょっと幸せ。
今日は何だか、ツいている。
空はいつも以上に真っ青。雲は無し。一足早い真夏日。頬を撫でていく夏風。
アスファルトの道を進めば進む程、汗がじわりと浮かんでくるけれど、夏は好きだから、それは苦にならない。それどころか、心が弾む。
日本の暑さはロスの暑さより湿度が高いけれど、夏には変わりは無い。
弾む足取りで、リョーマはコンクリートジャングルの真ん中を歩いて行く。
今日はこのまま、全国大会の決勝の舞台の様子見に。
どうせなら、1ゲーム、誰かとやらせてくれないだろうか。観衆は居なくていい。ただ果てなく強い相手と――――
「あ」
強い相手。まだ勝たせてもらっていない人。該当する人は二人いるけれど、昔の目標の方ではなく、現在の宿敵の方。
その人の影。そして声。不意に白く弾けた頭の中で、その声は、今日一番に聞いた声だったことを思い出す。
あの声が、「越前」と名を呼んだ。
低いあの声。変声期前の自分とは違った、一足早く大人へと変貌を遂げているテノール。
手塚のあの声が、自分を眠りの世界から連れ出した。そして始まったささやかな幸せの連続。
「…あの人も、いつ帰ってくるのかな………」
今日は、運のいい日。
家族以外の人間に会うよりも早くあの人を思い出せた。
…いい加減、『思い出す』なんて止めたいけれど。帰ってくれば、『思い出す』のではなく、『会う』ことが叶う。
朝一番にあの人と『会えたら』どれだけラッキーだろうか。
「はやく、『おかえり』って言わせてよ」
そう零しつつ、見上げた空には青の中を直線で抜けて行く銀翼。
今日は、なんだかこのままイイ事が続いていきそうな予感がした。
ただいまのその時。
ラッキー越前。
リョーマが見た飛行機の中には帰宅真っ最中のI'm comingな手塚な訳ですね。
こっそり繋いでいますヨ。
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