スイッチ
















日記なんてつけていなかったことを初めて後悔した。
出会った頃、自分が相手に対して好き以外にどういう気持を持っていたのか、どう接していたのか、精細に覚えてなんていなかった。
記憶を無くさずとも、意外と人間の記憶というものは曖昧らしい。




『最近になって初めて見る』

その言葉は、それまでの記憶を一部失していると裏付けるようでもあったが、あることをリョーマに気付かせるヒントにもなった。
キン、と甲高い音をさせて琴線が揺れる。

「…そう、でしたっけ?」

曖昧な記憶を漁りつつでは言葉は上手く紡げない。意図せずとも途切れてしまう。
だが、手塚がそれを訝しがる気配はなかった。
生憎と、ポーカーフェイスは特技だった。知っていた手塚なら、このポーカーフェイスの裏に潜む戸惑いに気付いただろうけれど。
リョーマが細く苦笑した手塚の表情に気付いた様に。

「竜崎先生にだとて、お前は畏まらんしな。…どうした、俺が怖いか」

今になって。
手塚はそう続け、怖い?リョーマは内心で彼の言葉をそう反復した。

怖いことなど。
自分に怖いことなど、ありはしない。

「怖くない」

ただ貴方を失うこと以外は。

「怖くないッスよ」
「そうか?」

声は震えていないだろうか。思わず、俯いてしまうリョーマを揶揄する様に手塚は口角を緩く擡げる。これもリョーマばかりが気付ける。本人すら気付いていないかもしれない小さな動き。

「ただでさえ、何と言うかな…近頃のお前は以前に比べて弱々しく見える」
「…近頃の、」

どうしても言葉が切れる。
吸気が重くて空気が吸い難い。いつもなら心地よくすらあった手塚の声が耳に痛かった。

ゆっくりと、俯かせていた顔をリョーマは仰がせた。

「近頃のオレ以前のオレって、どんなんでしたっけ」

それがどうしても思い出せないのだ。どうしたことか。
自分は、記憶など無くした覚えはないと言うのに。

記憶が一部欠けた人間に過去の事を聞くのは傍から見れば奇異なことかもしれない。
けれど、手塚の言葉に何かひっかかるものをリョーマは薄らと感じていた。
『以前』、『以前』と繰り返しているのが引っかかっていた。

リョーマの問いに、手塚は不思議そうに少しだけ片眉を上げた。

「なんだ。もう耄けたか?」
「かもしれないッスね。思い出せないんですよ」
「…そうか。まだ12なのにお前も大変だな」
「大変ッスよ」

色々と。主に目の前の人物のせいで。

その渦中の人物は、考える様に瞼を浅く下ろした。
そこに綺麗に生え揃う睫は矢張り未だに胸を揺さぶるものがあって、キュ、とリョーマは唇を強く引き結んだ。

手塚が考えている間、リョーマは声を発させることも無く、辺りにはいつも通りのレモンイエローが跳ねる音だけが響く。

「…」
「……」

漸く、手塚は口を開いた。

「俺が惹かれるものが内側にあった」
「アンタが?オレに?」
「ああ」

その短い返事と共に、薄く淡く色付く頬を、見逃す訳はなかった。
奥ゆかしすぎる程に、この人の所作というものは酷く見分け難い。その見分け方はもう自然に覚えた。
その霞がかった程度の紅が指し示すものも一体何者なのか、見当は尽き過ぎる程についている。

鉄面皮を被っている様な面をして、人並みに照れる人だった。

思い出すべき箇所が違っていたことに、リョーマは気付いた。
出会った頃の手塚への接し方を思い出しようが無くて当然だった。今と何ら変わる点などなかったのだ。
顧みるのは、自分の気持ちではなかった。どうして無くなる前の関係が有り得たのか。

まだ頬を灯らせたままの手塚の目の奥を見詰めれば、その視線に狼狽える様に彼の中の彼方で何かがゆらりと揺れた。
相手の目を見据えたまま、拍を置いてリョーマが緩慢に唇を薄く開いた。喉の深みから絞り出す様に声を発す。

「部長、オレ…」
「手塚」

リョーマの声を遮り、コートの向こうから大石が駆けてくる。手塚も、リョーマも弾かれた様にハッとそちらを見る。
数秒もしないうちに、大石は手塚の傍らまで辿り着いた。

「生徒会の連中が用があるとかでそこまで来てるんだけど」
「あ、ああ、そうか。わざわざすまないな。今、行く」
「部長」

身を翻しかけた手塚を、リョーマはまた引き止める。
まだ戸惑いが抜けきれないまま、手塚は再び足を止める。眼下の幼い声と体が震えている気がした。

「今日、一緒に帰らせて」

やっと、何かが視えた。























スイッチ。
ポチっとな。
無計画じゃない筈なんですが、何がもうどうなってきてるんだか…。
しつこくなってきた気がチラホラ…。ヒイ。
でも続きます。
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