既成事実
近付いていいものか、いけないものか。判断し兼ねてあれ以来、手塚と何とも言い得れぬ距離を保っていた。
近付けば、自分が知っている、手塚の知らない手塚だと錯覚して要らぬ事を口走りそうだったし、近付かないことは、想いを寄せている身としては絶対的に不可能であったし。
部員と部長との普遍的な距離の取り方というものを、すっかり忘れていたことに気が付いた。
「好きなら、もう一回告白でもすればいいのにね」
見ているこっちが落ち着かないよ、と手塚を遠巻きに見るリョーマを見遣り乍ら不二が乾に話しかける。
不意に話しかけられて、乾はノートから顔を上げた。
「なかなか、そう簡単に踏ん切りがつかないらしい」
苦笑いでそう返せば、不二がふぅん、と小さく漏らした。
彼にとっては、意外であるらしい。あの傲慢不遜で高名な1年坊主が一歩を踏み出すことを戸惑っていることが。
「記憶喪失ってさ、」
練習に一区切りが着いたところの休憩なのだろう、額から伝う汗を拭いつつ、不二はまた口を開いた。
「記憶を無くした時と同じことすれば治るとかよく聞くけど、手塚に試してはみたの?」
「手塚の場合、階段から転がり落ちたからな…。医者は治る見込みは無いとは言っていたが、一応、越前に試してみてはどうかと助言はしてみたんだが…」
レンズに隠された視線はリョーマの方へと向かう。倣う様に、不二もそちらを見る。
退屈そうに、コートの端でラケットでボールをバウンドさせている姿がそこに映った。
手塚が記憶を無くした日、手塚の中からリョーマが抜け落ちてしまったあの日から、彼の退屈そうな、苦虫を噛み潰した様な不愉快そうな顔色はずっと貼付いていた。勿論、今も。
まだその顔色が解けていないということは、
「やっても治らなかった、ってこと?」
「いや、そうじゃないんだ」
勿体ぶる乾の口振りに、不二は首を傾げて催促に替えた。
「したくないのだそうだ。危険だから、と」
「治るかもしれないのに?」
「100%治るとしても、嫌だと言われたよ。手塚に傷を付けたくないらしい」
「手塚が大事なんだね、あの子は」
代わりに自分があんなに傷付いているというのに。
「痛々しいね…」
「まあ、全てはアイツらの問題だ。俺達が口を出すべきじゃないんだろう」
「冷たいね、乾も」
「…口の出しようがないさ」
「そうだね」
あの日以来、ただでさえ少ないリョーマの口数が減っていた。言葉を閉ざしていた。否、他人の言葉をも受け止めずに閉ざしていた。
只管、手塚を見詰めることだけに彼の小さな体は収斂されていく日々となっていた。
「越前」
名を呼ばれ、振り返る。手塚が立っていた。
バウンドさせていたボールの動きを止めて、リョーマは手塚に正面を向ける。
「…合間の休憩中ッスよ」
サボっていた訳ではないと、言外に含ませる。
手塚も、その辺りは心得ているのだろう。知っている、と静かに頷いた。
リョーマが近付かなくとも、時として手塚が近付いてくる。
部を束ねる者として。『イチ部員』に対して。
自分がいつの間にか忘れ去っていた、部員と部長という距離の取り方を一部分が欠けた手塚は確りと覚えていた。
「右腕のその痣はどうした」
昨日、記憶を放り投げたくて階段を転がってみた時に出来た痣を指摘してきた手塚に、さも今し方思い出したとばかりにリョーマは自分の右腕を見る。
体は無意識に左腕を庇っていた。
その左腕が手塚とのライフラインだと自身が与り知らぬところで判断されているのかもしれない。
右腕に落としていた視線を手塚へと向かわせる。
「昨日、階段で転んだんですよ」
「他に怪我はないのか?」
「ちっさい痣は他にも幾つか」
淡々と答えてみせる心の内は決して平静ではない。必死に言葉を選んでいた。
確か、『部長』に対しては僅かばかりの敬語を用いていた筈だし、言葉に感情は込めていなかった筈だと胡乱気に思い出しつつの会話だった。
そうか、と無表情の手塚は小さく言葉を零した。
「自身の行動には細心の注意を払え。骨折などされたら部が困る」
その言葉に、こくりと頷いてみせれば、手塚は身を翻した。
用件はそれだけだったらしい。手塚の足は進み出した。
しかし、
「…?」
不審気に、手塚が不意に振り返る。
背後から、腕を縋るように掴まれていた。はたとリョーマと視線がかち合う。
その途端に、慌てた様にリョーマは掴んでいた腕を離した。
「何か用か?」
「そ、そういうんじゃなくて…」
眼下の後輩は俯いて、しどろもどろに言葉を紡いだ。
そんなリョーマは、手塚の今の記憶の中には存在しない。初めて狼狽えた彼を見た。
「おかしな奴だな…」
言葉尻に苦笑した気配が鑑みえて、リョーマはゆっくりと顔をあげた。
リョーマの知っている顔がそこにあった。
決して大きく表情筋を動かす事無く、小さく笑う見覚えのある顔がこちらを見下ろしていた。
矢張り、こちらは覚えている。その仕草の一つ一つを。
胸が締め付けられた。
「まあ、お前がおかしいのはこの頃ずっとだが」
「え?」
一見すれば表情の無い様に見受けられる微かに苦笑したままの顔に目を見開く。
「ここのところ、ずっと畏まっているな。お前が敬語を操る姿など、最近になって初めて見る」
その言葉の中の何かが、意図せず琴線を揺らす。
出会ったばかりの自分達の姿が網膜のずっと奥で薄らぼんやりと見えた。
出会ったばかりの頃――。
手塚と向き合ったまま、立ち尽くすリョーマの姿をまだ乾と不二は見ていた。
リョーマ本人も気付いていない過去からの真実を知り得ていたのは、観察眼に富に優れていたその二人だけだった。
早く、急いてしまえばいいのだと判っていたのはこの場でその二人だけ。
既成事実。
今回のこのリセット編は最初お題から始めたので、タイトルがリセット、一酸化炭素、とお固くきたので、そのまま続けてタイトルにユーモアや捻りはいれません。自分を、お固く。(どこかのCMのパクり)
話の道筋は大まかには決めてはいますが、日によって付け足したいエピソードなんかが出てきたりするので、全何話で終わるかはわたしも知りません。無計画な訳では決して…!
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