忘れたくない事だけを忘れるという感覚はどういうものなのだろうか。
至って平静に見える手塚を遠くに見遣りつつ、リョーマは思った。
全てを忘れるならば、そこにあるのはきっと不安。
自分が誰なのか、此処が何処なのか、相手が誰なのか、何が何なのか、まったくの白紙の状態。
ある筈のそれまでの全てを失しているからこそ、何も知らないからこそ、記憶を喪失したと気付けるのだろう。
だが。
視線の遠くのあの人のケースは、全ではなく一。
無駄に記憶は残っているものだから、自身が記憶や思いを失したことには気付かない。気付けない。
周りが諭しても、本人は一以外の全てを覚えているから、信じようがない。戯れ言だと一蹴だれるに決まっている。
大切すぎたもの。そのポジションは突如として奪われた。不可抗力だった。
いっそ、次の瞬間に瞼が開いて、ああ夢だったのかと多量の汗をかきつつも安堵できればどんなに心安らげることか。
想いはまだ双方向進行だと信じたがる自分が居た。
目的地
目の前には階下へと伸びる階段。
人も少なくなった放課後の踊り場に、リョーマはぽつんと一人で佇んでいた。
乾から聞いた、手塚が記憶を忘れていった場所。
あの日、雨でなければ。あの日、ここをあの人が通らなければ。あの日が無ければ。
記憶という曖昧なカタチをしたものが消えてしまうことはなかった。
悔しい、でもなく、辛い、でもない自分の今の気持ちが掴みきれなかった。
すっぽりと、手塚の中から自分が消えた日、時間、自分は何をしていたか。自分は何を思っていたか。
悲しい、気がした。
涙は出ないけれど。酷く、哀しい。
もう一度やり直せばいいと楽観した様に乾は言うけれど、果たして同じ結果を迎えられるかは未知数だ。
あの頃と今では違う。
あの頃は、自分の事を好いていてくれる手塚を知らなかった。故に強烈に執拗に求めることができたが、今は自分を好いていてくれた手塚を知っている。忘れていない。
しかし、あちらは前も今もリョーマに対して恋情を持たぬまま。
きっと、今はあの頃の様にただ手塚を求めるのではなく、あの頃の手塚を取り戻したくて求めてしまう。
それではいけない気がどこかしていた。
まだ、自分に手塚への気持ちがあるから、それを取り戻したいが為に相手を求めるのは何か違っている気がした。
もっと無垢な気持ちで、あの人に向かいたかった。
誰よりも好きだからこそ、余計にそう思った。ただ単純にあの人を好きになりたかった。
「…っ、どうしろってんだよ…」
気持ちは過去から現在の進行形。一度、それを故意に初期化できれば…。
そんな言葉が不意に浮かんだ。
爪先のすぐ先には、階下へ続く階段。
誘われるように、瞼を落とせば、引かれる様に自然に体が前へと倒れた。
襲い掛かる衝撃を予見していた体は無意識に防護していて、ただ少しの痛みが体に残っただけだった。
人のいない学校で、たった一人で階段から転がり落ちてみて、何をしているんだろうかと自問する声が上階の階段の裏側へと吸い込まれた。
ただ、あの人と同じ場所に立ってみたかっただけなのに。
残像でもなく明瞭にそこに在る記憶が疎ましく思えた。
十数段もの段差に打ち付けられて痛い筈なのに、涙なんて出なかった。
ぼんやりと、暗くなり始めた踊り場で寝返りをうつ。
リノリウムの床は、埃っぽい匂いがした。
目的地。
リセット編その3。
短い、ですね。ああ、うん、まあ、ほら、ね?(何)
内心だけ書くのは書き手側としては楽といえば楽ですが(動作の描写が省けるので)、読んで下さってる側はどうなんでしょうか…どきどき。
続きます。
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