衝動的言動
好きだと、越前リョーマが自分に向けてあの日ガラスの向こうで行ったことは、気のせいだったのだと、手塚国光は決着をつけた。
次の日の朝練に眠そうな眼でしかし遅刻ぎりぎりにコートに現れたリョーマを見てそう思った。
その日の朝練中、リョーマの態度は至って普通過ぎるくらい普通だった。
昨日の事は気のせいだったと手塚に思わせるには充分な程に。
しかし、手塚は気付くべきであった。
「おーいし、今日、オチビが普通すぎて、変」
「そうだね。俺もそう思うよ、英二」
リョーマが普通過ぎるという時点でおかしいのだ、という事に。
そんな手塚がリョーマの異変に気付いたのは、朝練を終え、午前の授業が終わり、昼休みを終えて、午後の授業が終了して迎えた放課後の練習が終わったその時という、その日初めてリョーマを見てから長い時間が過ぎた頃だった。
いつもは桃城とさっさと帰っていくリョーマが、皆が帰って行くのを見送り乍ら部室のベンチに腰掛けていた。
もう学生服に着替え終わっているというのに。
手塚が最後に部室にやってきて、まだ残っていた数人を横目に着替え始めた頃に漸くその腰をあげ、部室を出て行った。
しかし、リョーマのテニスバッグは置かれたままで帰宅したのではないと判る。
そうして、手塚が着替え終わり、部室に残っていた数人の部員も帰路に着いた頃、右手と口で紙コップを持ってリョーマが帰って来た。
そんなリョーマを視線で捉え乍らも特別気にかける事も無く、手塚は部室に備え付けられた机を前にパイプ椅子に腰掛けて部誌を開く。
手塚が部誌を書き始めた頃に、リョーマはと言えば持っていた紙コップを机の上に置いて、そしてその空いた手で壁に立てかけてあったパイプ椅子を一つ持ってきて、手塚の向かいでその足を開いて腰掛けた。
「これ、部長の分ッス。紅茶、平気ッスか?」
リョーマの声に走らせていたペンを止めて視線を上げるとその前には先程右手で持っていたと思われる、赤のストライプの紙コップ。
中には、紅味を帯びた茶色の冷えた液体が並々と入っている。
カップには見覚えがある。
売店近くにある自動販売機のものだ。
これを買いに行ったのか、と先程の突然の退出の理由は判った。
「オレの奢り。部長職って大変そうだから、ネギライって奴っすよ」
「ほぅ、日本語覚えたのか」
「発音と意味は覚えたけど、漢字は判んないッス。ネギライってどう書くの?」
そういって、リョーマは机に頬杖をついて手塚の前に開かれた部誌に視線を落としたのに気が付いて手塚は部誌の上端に『労い』と綴ってやる。
「労いは、こう、書く。苦労の労、だな」
「ふぅん」
「同じ漢字でいたわる、とも読む」
へえ、と、感心しているのだか興味がないのだか判じ難い答えを返し乍らリョーマは自分の手元にあったカップを啜る。
大方、リョーマのカップの中身はいつものあの炭酸飲料だ。
有名メーカーのアレは、あの自動販売機に並んでいたのを手塚は記憶している。
「それにしても、なんだ、桃城と喧嘩でもしたか?」
自分の前に置かれたカップに手を伸ばして、中の液体を喉に流し込む。
部活終わりの疲弊し、乾いた喉に正直水分はありがたい。
ただ、少しの苦みの中に混じる砂糖の甘みが些か強いけれど。
「え?なんで?」
手塚の問いが意外だったようでリョーマは首を傾げて見せる。
「いつも、桃城と帰るのに今日に限って居残っているからな、てっきりそうだと思ったんだが」
「ああ、なるほどね。大丈夫っすよ、桃先輩とは仲良く先輩後輩してますんで」
ぐい、とカップを大袈裟なまでに傾けてリョーマは中身を全て自分の喉に流し込んだ。
机の上に再び戻されたカップが軽そうな音を立てる。
「そうか。ならいいが。遅くならないうちに帰れよ」
結局、リョーマが何故部室に残っているのだかは判らなかったが、何かプライベートに関わっている理由なのかもしれないと思って、会話を終わらせる言葉を吐く。
そして、手塚が部誌に再び向き直ろうとして、視線を机上に戻した時、また自分の向かいから声がかかった。
「部長はさ、今、好きな人とか居るんすか?」
途端、昨日のバス停での出来事が手塚の脳裏をよぎって、小さく左胸がどきり、となる。
しかし、いつもの無表情のままの顔をまたリョーマに向けて、
「いない」
と一言だけを返して部誌を書くのを再開させる。
視線の外からは、ふーん、という声だけが聞こえる。
安堵したような、でも、どこか寂し気な、未だ未だ発達途中の幼さがある声。
手塚は、脳内を駆け巡る昨日の出来事を打ち消す。
けれど、打ち消しても打ち消しても後から何度もその姿は現れてくる。
「部長、オレはね、居るんですよ。好きな人」
「そうか」
どこか悪戯めいた響きを持った声が手塚の脳内に喚起される映像をより鮮明にさせる。
リョーマの言葉の紡ぎ方はまるで、それを狙ったかの様に響くから一瞬手塚のペンを握る手が止まる。
そしてそれをなるべく気取られぬ様に、努めて平静に手塚は答えを返して手を動かし始める。
短く、なるべく素っ気ないような答えを。
「誰か、気になったりしません?」
「いや、ならん」
リョーマが机に沿い乍ら身を乗り出して来るのが視線の端に映る。
それに伴って手塚の頭の中の映像は、更に、更に鮮やかに再生を繰り返す。
恰も、今、目の前で繰り広げられているかの様に。
「ウソツキ」
手塚に伸びてきたリョーマの手が手塚の前髪に触れた。
そこで、ついに手塚は走らせ続けていた手を止めてリョーマを睨めつけた。
顔を上げると思っていたよりもリョーマの顔が近くに合って、手塚は息を呑む。
独特の青味がかった髪や端食み色の眸が自分に迫って来ている様は妙な色香が漂っている。
手塚の呼吸は、完全に停止した。
「すごく、気になってる癖に」
「何故そう思う」
漸くに思い出した呼吸のせいか、声が少し掠れた。
気付かれただろうか、と不意に思う。
「アンタの表情から気持ちを知るなんて、オレには簡単な事だから」
それぐらい、手塚国光という人間を見ている。
そうリョーマは言外に滲ませたが、手塚は気付いただろうか。
「気になってるけど……でも、もうその答えがアンタには判ってるんだよね」
ただ無言で瞠目する手塚にリョーマは薄く眼を細めて、穏やかに微笑んで見せる。
「昨日のこと……勿論覚えてるよね?バス停の前でオレが言ったこと」
「…声は、聞こえていない」
二人の間には薄い透明な壁があったから。
あまりに呼吸をすることが辛い。
酸素が足りずに血液が回らなくて体中が異常な脈の打ち方をしている。
リョーマに触れられている髪の先すらも。
リョーマには、触れたその指先からこの奇妙な鼓動が聞こえているかもしれない。
「また、そうやってアンタは嘘をつく。知ってる。アンタにはオレが何て言ったか伝わってる事」
「伝わって、いない」
これは、嘘だ。
昨日、リョーマが何と言ったか、手塚は気が付いている。
そして、その気が付いた言葉が外れていないことは、恐らく間違いない。
けれど、認めてはいけない。
そう、手塚の隅から警告音が鳴っている。
耳を劈く様な、けたたましい甲高い音が。
そんな手塚を知ってか知らずか、リョーマは触れたままだった手を動かして手塚の髪を梳いて耳に手をかけた。
「じゃあ、ジャマの無い今、もう一回言う」
そして、見開かれたままの手塚の眸をリョーマのその顔が埋め尽くす。
リョーマ以外見えなくなった視界の外で、唇に暖かなモノが触れる感触。
手塚の眸に映るのは浅く目蓋を閉じたリョーマ。
その目元に並ぶ睫を無心のまま見詰めていれば、口元に触れていた唇が去って行かれ、
隠されていたその鋭利な眸が徐々に現れて行く。
「部長、好きだよ」
衝動的言動。
はい、いいところで切ってみます。(鬼)
なんて、期待をして頂けると嬉しいですが。
ドキをムネムネさせたまま、明日をお待ち下さいませ。
どーなるどーなる、リョ塚事情!
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